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転職。「隣の芝生は青く見えた」だけだった。

余所の会社は良さそうに見えるものだ。残業も少なそうで、施設やシステムがきちんとしていそうで、働きやすそうだったり。でも、まあ、良さそう、働きやすそうというのは、あくまでもこちらが勝手に抱いた想像で、実際は違うものだ。
これまで転職するなら少しでも若いうちに…というようなことを書いていたけれど、今は修正したい。取り消すところまではいかないけれど、転職は本当に慎重にやるべきだと思う。勢いや周りに流されての転職は避けるべき。後々後悔する可能性がものすごく高い(経験者は語る)。


ただ、勤めている会社がむちゃくちゃなブラックだとかそういう場合は即転職すべきで、私の基準だと休めない会社はヤバいと思う。体調不良でも休めない。病院に行って、それから直で出勤。今休まれたら業務が回らなくなる。ものすごい綱渡り状態なのはみんな知っているはず…。迷惑だけはかけないでほしい…。面とは言ってこないけれど、雑談に織り交ぜて、聞こえてくるそれらの言葉に、全身が堅くなる。「体調不良くらいで簡単に休めると思うなよ」と、つまりはそういうことだ。


体調管理には気をつけていても、それでも体調を崩すときはある。午前休ではなく、1日休みたいときもある。1日休んだほうが回復もする。体調が悪いときは精神的にも不安定になるものだ。疲れすぎているときも。


休まなければ体調は回復しないし、疲れもとれない。対策としては眠ることだ。睡眠不足で、良いことはひとつもない。


ストレスも眠ることで軽減される。


眠ること。眠ること。眠ること。


今ほしいのは、眠る時間。


夢も見ないくらい、泥のように眠りたい。


眠らないことには今のこの状態からは抜け出せない気がする。



お互いを責め合う関係というのは不毛だ。

つぶやき

タイトルのまんまなのだけれど、「お互いを責め合う関係というのは不毛だな」と、今日帰りながら思った。
不毛。辞書で調べると「なんの進歩も成果も得られないこと」とある。お互い責め合い、言い争い、相手の至らない点を指摘し、少しでも優位に立とうとしたところで、たぶん、それだけでは問題は解決しない。誰にでも長所、短所があり、性格的に合う、合わないがある。それでも、職場や家族など離れることが難しい関係であれば、相手を責めるのではなく、どうすればよくなるのか、お互いのストレスを少しでも軽減させることができるのか、そちらに意識をむけたほうが、お互いのためであり、ひいては平穏につながっていくのかな、と。
根っから好戦的で、舌戦を好む人もいるけれど、おそらくそういう傾向を他の人は変えられない。その人はそういう人で、その人はその人の論理で生きている。それを認め、あとは、振り回されないよう、防御するしかない。精神消耗合戦には最初から参加しないこと。何を考えているかわからない、と言われるかもしれないけれど、それでもいい。私は言い争いたくない。


責められてストレスがかからない人はいないと思う。責めて責めて責めて、その先、その果てにあるのは何なのだろう。


「どうして・・・」「なんで・・・」と責める人を責める自分がここにいる。


あらためてここに書きたい。


お互いを責め合う関係というのは不毛だ。



イライラに囚われるのではなく、気分を変えようとする。積極的に好きなことをする。

今思ってること

ここのところずっとイライラやモヤモヤで苦しく、身動きが取れなくなっていたのだけれど、ようやくここにきてイライラが消え、自分を取り戻せたように思う。


やはり大事なのは、自分の時間を持つことだ。


週末、気分を変えるために出かけた。出かけたといっても旅行などではなく、大型書店なのだけれど、本好きとしては書店に行くだけで、気分が良くなる。前々から読みたいと思っていた本を探した。もちろんネットで注文すれば、すぐに確実に手に入るのだけれど、今回はあえてそうせず、書店員にも聞かず、自分で探した。


探すのは楽しい。
目当てお本を探していると他にも良さそうな本を見つけたり、好きな作家の新刊を目にしたり、気分は高揚していく。フローな状態になっているのが自分でもわかる。


イライラしていたり、心が弱っていたり、落ちこんでいたり、そういうときは、私は家に籠るのではなく、積極的に外に出たほうがよいと思う。私の場合は書店に出かけることなのだけれど、人それぞれ何か気分が良くなる場所、気分が良くなる行動はあると思うので、なにはともあれ、やってみることだ。


書店に行って、お目当ての本を探しながら、ふらふらと本の森を彷徨って、そうするうちにだんだん元気になってきた。


以前も書いたかもしれないけれど、膨大な本を見ながら思うことがある。
こんなにたくさんの本がある。こんなにも本はあるけれど、果たして生きているうちにどれだけの本が読めるのかな、と。本の中には見知らぬ世界がまだまだある。そう考えると、わくわくが止まらない。


自分でも「大丈夫かな」と思うくらい気分が重く苦しかったのだけど、結局のところ、その気分を変える(変えられる)のは自分で、その変え方も自分で見つけるしかないのだと思う。


まぁ無理に出かけなくてもいいし、寝て疲れをとることのほうが大事というときもあるし、疲れているからイライラする、滅入るという場合もあるので、そんなときは積極的に眠ることだ。眠れなくても、横になって体を休める。何度も深呼吸して、気分を落ち着かせる。それだけでも、あとあと違ってくると思う。横になって深呼吸は私もよくしていることなのだけれど、深呼吸を繰り返しているうちに、いつのまにか寝てしまっている。


イライラに囚われるのではなく、気分を変えようとする。積極的に好きなことをする。


今日はこのへんで。


他者に対してマイナスの可能性、ネガティブな結果予想ばかりするのはどうしてだろう。

考えたこと

その人自身が心配性なのかもしれないけれど、単純に心配性なだけどは思えないくらい、マイナスの可能性、ネガティブな結果予想ばかり口にする人がいて、正直言って辟易している。辟易するのは、もしかしたら、私が楽天的で、おおざっぱ、「まぁ大丈夫だろう思考」が強いからかもしれない。


その人とは話をしているとだんだん苦しくなる。相容れないというのは、人の多様性を認めてもなお、やはり感覚で、肌で感じてしまうもののようだ。相手も私の言動や態度にイライラしているようだ。こと細やかな対応を求め、期待し、しかしながら応えてもらえないことはストレスだろう。まぁ、こちらとしても自分のできること以上のことを求められても困るというものなのだが。


まぁ「その人はそういう人なのだ」と受け入れていまえば(諦めてしまえば)楽になるというのある。他者は変えられない。コントロールできない。マイナスの可能性を示唆し、ネガティブな結果予想を口にするのは、これまでその人が経験し、辛酸をなめてきたからかもしれない。失敗したくないという思いが極端に強いのかもしれない。それはわかるけれど、まだ大事にはなっていないのに「もし、~たら、どうするんですか」と声を荒げるのは、やめてほしいと思う。


他者に対してマイナスの可能性、ネガティブな結果予想ばかりするのは、おそらく結果予想する人自身が不安で、なにより他者を信じていない(信じられない)のかもしれない。どうして信じられないかはわからないけれど、他者不信が思考をネガティブにしているのはあるように思う。その人を信じて任せることができず、ついつい口出ししてしまう。もっとこうあるべきだ、と自分の考え方ややり方を押し付けて、相手と軋轢が生じて・・・。


自分の考え方ややり方が経験上とても良いものだとしても、他者に押し付けるのはよくない。自分の考え方ややり方が相手にとってBESTで良い結果になるとは言えないし、むしろ押し付けられて反発するかもしれないし、疎んじられるかもしれない。「やりたい放題を許せ」とは言わないけれど、でもやはり一人の人間としてやっていることは認めてほしい。


声を荒げる人は、不安なものを中に抱えているのだと思う。
不安や不満、モヤモヤが内々に溜まって、とても平穏を保てる状態ではないのだろう。
他者を信じられなくなるというのも、そういう状態なら仕方がないかもしれない。


まぁ仕方がないとは思うけれど、でもやっぱり声を荒げるのはよくないと思う。


そのうち落ち着くとは思うけれど、でもまぁそんな風に根拠なく勝手に予想するのは、これはこれで楽観的すぎるかもしれない。





読むたびに敗北感を感じるブログ

読むたびに敗北感を感じるブログがある。


ブログ名は書かないけれど、この人が書くものには敵わないなぁと素直に思う。


たぶん、経験していること考えていることが私の数倍も数十倍も多く、濃いのだと思う。


自分が書いていることの薄っぺらさを思い知らされる。汎用性を重視して書いているせいで、心の奥底まで降りてくるものがない。心を掴み、訴えるような、そんな文章もない。


でも、それでも、スタイルを変えようとは思わない。アクセス数のためにブログを書いているわけではないし、本当に読みたい人が読んでくれればいい。


評価の話と関係するけれど、仕事で思い切りダメだしされて、でも、その一個人の評価基準に振り回されて、凹みたくないと思った。ブログもしかり。わざわざ読む価値がない、みたいことを言われたことがあるけれど、それはその人の価値基準だ。広い世界。どこかに認めてくれる人がいるはず。続けていれば、きっと、いつかきっと。


あるブログを読んで敗北感を感じるのは、相手の価値を認めているからだと思う。そして自分が書くものと比べてしまう。比べて憂鬱になるのだけれど、でもまぁ、私の場合、こういうものしか書けないのだから仕方ない。


読むたびに敗北感を感じるブログ。


よく考えたら、こんなブログは、なかなかないと思う。


ブログは勝ち負けではないと言う人もいるかもしれないが、一度感じた敗北感はなかなか消えない。


簡単には消えないし、でもまぁそのままでもいいのではないかと思っている。




言葉にする練習

今思ってること

仕事が忙しく、ほとんど読書していないことに気づいた。
インプットが極端に少ないと、ブログを書きたいとかアウトプットしたいということもなくなるようだ。


つらつらと考え、いろいろと感じることはあるのだけれど、言葉が思うように出てこない。


考えたこと、感じたことは確かにあるのに、今は霧散して、無い。思い出せない。


いつのまにか、ただ時間だけがすぎて、ふと思う。


「わたしは何をしていたんだろう」と。


無我夢中。これは良い言葉なのだろうか。


仕事に夢中になるあまり、他のことがおざなりになっている。どうでもよくなっている、と書いてもいい。いろいろなことを言葉にするのが面倒になり、感情も平坦になり、なにより最近のことを思い出せない。


言葉にする練習をしたい。時間がない。めんどくさい、などと思わずに、言葉にすること。読書の習慣を復活させるとともに、考えたこと、感じたことを言葉にする練習をこれからしたい。




最近のことですら思い出せないのは、たぶん疲れているからだろう。
短くてもいいから、日々のことも言葉にして残していこうと思う。



感情類語辞典

感情類語辞典




評価を気にしていたら続けていられない。やってられない。

ブログでも仕事でもそうだけれど、評価を気にしていたら続けてられない。というか、「やってられない」という気持ちになる。評価は人によってさまざま。まぁ価値観や考え方も人それぞれ違うし、見ているだけ、話を聞いているだけでイライラする人もいるようで、なんというか、こちらとしてはどうしようもない。私は特定の人に迎合するようなことは書きたくないし、ましてや仕事も特定の人に気に入られるために仕事をしようとは思わない。まぁだからといって、わざと嫌われるようなこともしたくないし、私個人としては、マイペースで淡々と続けていくのが好きだ。


マイペースなのは今に始まったことではないけれど、自分のペースを守りたい、自分のやり方を大事にするあまりに聞く耳を持たなくなるのは、自分でもこわいなと思っている。


でもまぁ、自分のやり方を大事にするとともに、よりよくしていきたいという気持ちも強いので、変えることは嫌いではない。納得した上で変えたいというのはもちろんあるけれど。


評価でいえば、以前からわたしは自分に対する評価が低かったのだけれど、低い自己評価は「やる気の低下」「どうせやったって・・・」という気分になるので、よいことではないと気づいた。できないならできないなりに、今できるだけのことをするしかない。手持ちの札で、どうにかするしかない。そんな風に「開き直る」と強くなる。誰がどう評価しようと、気にしないことだ。人の口に戸は立てられないし、エゴサしたところで疲れるだけだ。


まぁ「開き直る」までには、それなりに時間がかかるもので、でも他者の評価をいちいち気にしなくなった分、仕事に集中できるようになった。好きなようにブログが書けるようになったというのはある。


もっとも、仕事の場合、ひとりよがりにならないようにしなければならないのだけれど、個人のブログだったら、むしろ、その人らしさが出ているほうが面白くてよいのではないかと。


その人らしさ、自分らしさって何だろうな、と思ったけれど、それはまた別の日に書くことにしよう。今日はこのへんで。


「他人の目」を気にせずに生きる技術

「他人の目」を気にせずに生きる技術

そろそろ人の目を気にするのやめませんか。〜人の評価が気になるあなたへ。〜

そろそろ人の目を気にするのやめませんか。〜人の評価が気になるあなたへ。〜