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漠然とした不安をかかえるということ

なかなか言葉にできない漠然とした不安が気持ちを重くすることがある。


本当に漠然とした不安。仕事のことや人間関係、これからのこと、などなど漠然と。


まあ、結局は
「まあ、なんとかなるでしょう。今までもなんとかなってきたから」
という結論になってしまうのだけれど。


考えてもどうしようもないことは、やっぱりある。「考えてもどうしようもないことなのに考えてしまうのはなんでだろう」とも思うけれど、自分的に納得できるところまで持っていかないと、どうも考えることをやめられないようだ。そういう性分らしい。


漠然とした不安は昔からあって、その不安から逃れたくて、いろいろなことをしたけれど、どれも中途半端で終わってしまった。中途半端というのは不安なものだ。どこかに何かに所属していないというのも。


その一方で、不安定であっても、自由でいたいと思う自分もいて、自分でも自分の扱い方がわからないことがよくある。


不安は、言葉にできないから余計に不安になるものなのかもしれない。例えば、暗闇でよく見えないものが得体の知れないものに見えることがあるように。


でも逆に言葉にしてしまうと、それと面と向かい合わなければならなくなりそうで、それが嫌で、言葉にするのを躊躇してしまったり。おそらく私は後者だ。言葉にせず、言葉にする前に闇雲に動いて、結局うまくいかなくて、自己嫌悪に陥ったり、あるいは「あれは酸っぱい葡萄だ」と思ったり。


不定期に不安になることは、今までもあったし、特に重く感じてしまうのは相当疲れているせいもあるのだと思う。疲れをとりなさい。休みなさい。という暗示かも知れない。


繰り返しになるけれど、結局は
「まあ、なんとかなるでしょう。今までもなんとかなってきたから」
ということで自分を納得させることになる。


漠然とした不安に効く特効薬はないのでは?
漠然とした不安をかかえつつも、でもまあなんとかなるでしょう、ということで、今夜は寝ます。寝れなかったら、好きな漫画を読むことにします。


今日はこのへんで。




今まで読んでこなかった本を読む

特に最近興味関心がある本しか読んでおらず、とても視野が狭くなっていることに気づいた。
仕事関係の本もしかり。


毎日30分でもいいから「今まで読んでこなかった本を読もう」そう思っている。


具体的には歴史と経済。


歴史については世界史は学生時代に少し勉強したけれど、すっかり忘れてしまった。


知識として知っておいたほうがよいことはいくらでもある。何も知らないこと(無知)からは何も生まれないというのを何かの本で読んだけれど、本当にそうだと思う。知識から助けられることは多い。考える素となるのも知識で、まあ簡単に言うと、いろいろなことを知りたい、知って自分の武器にしたい。そして、考えたことをもっと文章にして残したほうがいいのだろうとも思っている。


まずは、毎日読書する時間を30分、静かに考える時間を30分持つようにしたい。できればアウトプットする時間も持てればと思う。


経済は地理から学べ!

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組織内のバランスと個人の資質について考えた

例えば、職場内において、お互いを補完しあう関係がいくつも成立している場合、仕事はうまくいくものだと思った。あるとき、急遽、会議室を変更することになった。とてもアグレッシブ行動的なAさんは、使用できる会議室を押さえるために会議室の使用管理を管轄している庶務課へ走り、使用できる会議室がC会議室だとわかると、C会議室にセッティングに飛んでいってしまった。


一方、Bさんは、冷静で慎重派。その使用できるC会議室が会議参加者が全員は入れるか確認。椅子が足りないということで、他から椅子だけ運び入れる算段をとり、それをすでに会議室入りしているAさんに伝えた。そして、会議室がC会議室に変更になったことを会議参加者に連絡し、かつ会議室が変更になった旨の掲示物を旧会議室前に貼り、C会議室の場所も手書きする念の入れようだった。


行動派のAさんのおかげで、セッティングは無事間に合い、冷静慎重なBさんのおかげで、会議室参加者に会議室変更の件が伝えられ、一部、連絡が取れなかった人も、旧会議室にも張り紙がしてあったので、旧会議室で待ちぼうけを食らう人も出ず、めでたしめでたし。会議は全員参加で、定刻に始められた。


思うに、行動がはやいことはもちろん良いことだけれど、早い分、なにか取りこぼすことも多いように思う。取りこぼしをなくすためには、フォローする冷静さや慎重さが必要だし、でも冷静慎重すぎて、行動が伴わないのは困る。


組織において、そういった行動的な人と慎重な人というのは、バランスよくいたほうがよいと思われる。行動的な人は、慎重な人にイライラするかもしれないけれど、慎重な人には慎重な人のよさがあり、もちろん行動的な人は、それだけで、敬意を表したい。私が慎重で、とても行動的とはいえないだけに、行動的な人をすごいと思う。


考えてから動きたいタイプの人というのは、だいたいにおいてなんでも遅い。決めるのも遅いし、いわゆる優柔不断で、意外と言語化は得意なのだけれど、でも行動が伴わない。逆に、言語化は苦手だけれど、あれこれ言う前にやってしまえ、細かいことはいいんだよ!と行動してしまう人も少なくなくて、だいたいにおいて、行動する人は注目されるし、結果を出す。それもそうだ。行動しないのに結果は出ない。行動する人は評価されるし、一方、行動しない人は評価の対象にすらならない。そもそも評価されるようなことをしていないのだから。


「行動しろ」そう言われても、行動できない自分を歯がゆく思う。考えてから、納得してから動くというのが、もう「かまぼこの板」のように張り付いてしまって、ちょっと揺さぶったくらいでは剥がれそうにない。


では、どうすればいいのか。


まったく動かないわけではないけれど、ここはひとつ行動的なことは行動的な人に任せ、それをフォローする側に回ることで、自分の立ち位置を確保できるのではないか、と。取りこぼし、あとあと問題になりそうなことの芽を摘む。そういった仕事をする人も必要で、自分の資質を生かす方法は探せばあるはずだと思う。


職場や組織に行動的な人が多ければ多いほど良い、とは一概には言えないと思う。慎重な人、俯瞰して取りこぼしがないか、問題が起きていないか、問題が起きそうなことはないか見る人、チェックする人も必要で、私はこちらの立場をとりたい。後方支援という言葉も今思いついた。


組織が必要としている資質は、ひとつだけではないと思う。むしろ、さまざまな資質を必要としていて、資質的にうまくマッチングすれば、働きやすいと感じられるし、逆の場合は働きにくい、働きたくないとなるのかもしれない。


長くなってしまったので、このへんで。



仕事熱心ということ

ある人から「仕事熱心ですね」と言われた。
その人が接する人のなかで、とりわけ私が仕事熱心な人らしく、私は言われて驚くとともに、思ってしまった。他の人はもっと仕事に対して冷めているのか、と。


私が見るに、まあいつも不機嫌そうに仕事をしている人も確かにいる。疲れていたり、忙しくていっぱいいっぱいだったりするのだと思う。淡々と黙々と仕事をしている人もいるし、しょっちゅうトラブル対応に追われいる人もいる。トラブル対応でいっぱいいっぱいになり、肝心の仕事が雑になっている人もいる。雑な部分というのは、意外と目立つもので、仕事なのにそんなに雑でいいの?と私は思うのだけれど、私はその人の上司でもなんでもないので、大きな支障がないかぎりあれこれ言わないようにしている。テキトーに仕事をするのもその人の自由だ。もしかしたら当の本人は雑なつもりはないのかもしれないし。



話を戻して、「仕事熱心」というのはほめ言葉で、見る人はちゃんと見てくれているのだなと、うれしくなる。


手持ちの札、スキルを総動員して、決して手を抜かないことをモットーとして仕事をしているのだけれど、仕事は次から次へとやることがあって、まるでRPGゲームのように楽しい。夢中になっているその様子は仕事熱心とその人の目にうつるのだろう。


ただ、夢中になりすぎて、周りが見えなくなっているときもあるから要注意だ。仕事はチーム(課で)するもの。自分ひとりの仕事だけでは成立しない。


転職前、毎朝ゆううつで、行くのが嫌で嫌で仕方がなかった。今はそういうことがない。むしろ夢中になってしまうというのは、転職してよかったということになるだろう。もう転職前の仕事に戻ろうとは絶対に思わないし、それどころかもっと早く転職しておけばよかった!とすら思う。まあ、そんなことを今更言っても仕方ないのだけれど……。
転職したいのなら、少しでも若いうちに。ということを以前どこかで書いた気がするけれど、何度でも、自分に合う仕事に出会えるまで、あれこれやってみるのも、一つの手かもしれない。





相手の感情を考えるということ

相手の感情を考えずに、つい言ってしまうことがないだろうか。
いわゆる余計な一言というやつを。
あるいは、できれば言わずに心にとどめておいたほうがよいと、自分でわかっていたのに、気づいたら口にしてしまっていたとか。


こういうことを言ったら、相手の感情を害するだろうな、と予想し、また99%確実に害するとわかっていて、それでも言ってしまうのは、一体どういうことなのだろう。


言いたいことは言う権利がある。
それも一理ある。


しかしながら、言ったあとで、自分にとって利益があるかというと、むしろ逆で、「しまった」「言わなきゃよかった」と後悔の念に駆られ、相手との関係も苦しいものになることが本当に多い。嫌われたり、嫌いを表にはださないけれど、無言で距離をおかれたり、あるいは敵対心をもたれたり。相手の感情は相手のもの。相手に感情は、そう簡単に収拾がつくものでもなく、あとで謝ったとしても、果たしてどこまで関係を修復できるのかと考えてしまう。


言いたいことを言うとき、そこに愚痴や不満や相手を卑下するようなそんな気持ちがあると、言われたほうは確実に気分を害する。相手の気分を害させて、それでよい気持ちになるのは、褒められることではない。愚痴や不満の吐き出し先が特定の個人となると、なにかしらの問題(トラブル)の勃発につながるだろうし、さりとて、愚痴も不満も言えないとなると、自滅、自爆という可能性もなきにしもあらずで、さてさて、どうしたものだろう。日記などに、こっそり書き綴り、吐き出すのが、特定の個人を傷つけず、それでいて自分はすっきりする方法、と言えなくもない。まぁ果たしてそれで本当にすっきりするかどうかは、個人差があると思うのだけれど。


なにものにも囚われず、「まぁどうでもいいよ」という境地になりたいと思うことが度々ある。「こまかいことはどうでもいい」「だいじなことは他にある」と。
自分の感情くらい自分で律して(コントロールして)、やたらと他者の感情を揺さぶるようなことを言わないようになりたいものだ。良い意味で揺さぶるのであればいいけれど、ネガティブに揺さぶり、害することがないよう気をつけたい。





仕事で必要とされる人の特徴について考えた。

仕事で必要とされる人の特徴について考えた。
考えてすぐに思ったのは、なにかこれといった得意分野、専門があるということ。


誰でもできる仕事しかできないのであれば、若くて体力がある人のほうがいいだろう。
若さも体力もなくなっていく自分。得意分野がないわけではないけれど、でも特に周囲から認められているわけでもなく、これといって専門もないとなると、はてさて、どうしたものか考えてしまう。



そうだね。若さも体力もなくなっていくとなると、あとは経験とか経験によって培われた勘とかコツとかセンスといったもので、なんとかしていくしかないのかな、と。あとは、得意なことを伸ばしていくとか。


で、ここまでは、今までというか、たぶん以前にも書いていることで、今日はちょっと進化(深化?)する。


得意分野専門分野ということも大切だけれど、なにより仕事で必要とされるには信頼されることではないかな、と。この人なら任せられる。この人なら、途中で投げ出したりしない、という信頼。お互い信頼がないと、仕事をし続けるのはつらいのではないかと思う。


こちらとしても、信頼して仕事を任せてほしいし、地味ではあってもきちんと最後まで終わらせることにかけては自信がある。それに仕事なのだから最後まで終わらせるのは当然だと思う。あとは、仕事の丁寧さはウリにできると思う。


仕事のスピードについても、以前よりかなりはやくなった。さまざまな経験の蓄積はスピードになるというのは、最近特に感じていることだ。やはりスピードは大事。丁寧なのも大事だけれど、でもやっぱり、最後まで終わらせること。そこだ。あとからフォローはできる。とにかくゴールにたどり着くこと。そのゴール設定を最初に誤らないこと。過程(プロセス)をきちんと踏むこと。はしょると失敗する。はしょらない。手順をきちんと踏む。流れを可視化させる。なんでもわかったつもりにならない。わからないこと、想定外のことは必ずあると思っておくこと。


仕事はすれば、するほど面白い。わからないことはいくらでも。課題はいくらでも。「これだけやったのだから、もういいだろう」と思ったところで足元をすくわれたり、想定外のことで満身創痍になったりするし、でもまぁ、良いことも嬉しいこともあるし、さまざまな思い通りにならないことの連続が仕事なのかなとも思う。仕事は相手があって、その思い通りにならないというところが、また面白いところで、とにかく自分の手札で、今の自分のスキルで挑むしかないというのも、ワクワクするところだ。


働く場所については、自分のスタンスをわかってくれるところは必ずあると思うし、必要とされたかったら、必要とされるような人になることだと思う。私の場合、今も専門の勉強は続けている。


話は変わるけれど、最近仕事をしていて、「新しいアイデアがほしい」とよく思うのだけれど、そのことについてはまた今度書こう。長くなってしまったので、このへんで。



できない自分を責めすぎたら潰れるよ。

できない自分を責めたり、自己嫌悪したり、うまくいかないのは全部自分のせいのような気がして、思考がフリーズしてしまうことがある。なんというか、何も考えられなくなる。感情も感覚も鈍くなり、そのうち食べ物の味さえわからなくなることがある。


思考フリーズも、感覚が鈍くなるのも疲れているからだろうと思うけれど、私の場合、仕事がイヤなわけではなく、仕事ができない自分がイヤで、いつまでも満足できる結果が残せない。
自分でも思うのだけれど、仕事に関して私は特に厳しい。手を抜いたり、ミスを隠す同僚が許せなかったりする。それは自分に対してもそうで、絶対に手は抜きたくないし、ミスも失敗もしたくない。(とはいえ、どうしてもしてしまうものなのだけれど)


そんな感じで、スタンスだけは立派なのだけれど、実際のところ、どれだけ結果を残せているかといえば、実感がない。以前よりは確実に残せていると思うけれど、でもそれで満足できているわけではない。まだまだ勉強が足りないと思うし、まだまだやり残したことがあって、だからまだまだ仕事をしたい。もっともっとやりたいことがある。やってみたいことがある。このままで終わりたくない。まだまだできる。いろいろなことをできるようになりたい。そう思うからこそ、今現在できない自分が歯がゆくて仕方がない。


情熱や自分の時間を注いでも惜しくないと思えるものがあるのはしあわせなことだと思う。
以前は、それが「書くこと」だったりしたのだけれど、いつしか自分が「書くこと」の限界を感じて、「書くのは、たまにでいいかな」となってしまって今に至っている。まぁ書くのが嫌いになったわけではない。書こうと思えば、こうして書けるし、無性に書きたくなるときもある。今みたいに。


タイトルに戻って、「できない自分を責めすぎたら潰れる」。そう思ったので書いた。
できない自分を責めてしまう人は意外に多いのではないかと思う。
できない自分を責めない。
どこかでも書いた気がするけれど、できないものはできない。
できることから、ひとつずつやっていくしかない。
できるようになるには、失敗してもいいからやってみるしかない。


とにかく、失敗しても自分を責めすぎないこと。
いろんな失敗をして、それが足かせになるときもあるけれど、もうそれはそれでしょうがない。
簡単には挽回できないだろうけれど、それならそれで開き直れる。
開き直って、次へ進む。次の手を探す。


よくないのは、自分を責めすぎて、それで潰れてしまうこと。
誰でも失敗はする。
失敗はするものなのだから、必要以上に囚われないこと。


毎朝、新鮮な、新しい気持ちで1日を始めたい。
今日と言う日は、あたらしい日。


もう一度「書く」。
情熱や自分の時間を注いでも惜しくないと思えるものがあるのはしあわせなことだと思う。