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イライラに囚われるのではなく、気分を変えようとする。積極的に好きなことをする。

今思ってること

ここのところずっとイライラやモヤモヤで苦しく、身動きが取れなくなっていたのだけれど、ようやくここにきてイライラが消え、自分を取り戻せたように思う。


やはり大事なのは、自分の時間を持つことだ。


週末、気分を変えるために出かけた。出かけたといっても旅行などではなく、大型書店なのだけれど、本好きとしては書店に行くだけで、気分が良くなる。前々から読みたいと思っていた本を探した。もちろんネットで注文すれば、すぐに確実に手に入るのだけれど、今回はあえてそうせず、書店員にも聞かず、自分で探した。


探すのは楽しい。
目当てお本を探していると他にも良さそうな本を見つけたり、好きな作家の新刊を目にしたり、気分は高揚していく。フローな状態になっているのが自分でもわかる。


イライラしていたり、心が弱っていたり、落ちこんでいたり、そういうときは、私は家に籠るのではなく、積極的に外に出たほうがよいと思う。私の場合は書店に出かけることなのだけれど、人それぞれ何か気分が良くなる場所、気分が良くなる行動はあると思うので、なにはともあれ、やってみることだ。


書店に行って、お目当ての本を探しながら、ふらふらと本の森を彷徨って、そうするうちにだんだん元気になってきた。


以前も書いたかもしれないけれど、膨大な本を見ながら思うことがある。
こんなにたくさんの本がある。こんなにも本はあるけれど、果たして生きているうちにどれだけの本が読めるのかな、と。本の中には見知らぬ世界がまだまだある。そう考えると、わくわくが止まらない。


自分でも「大丈夫かな」と思うくらい気分が重く苦しかったのだけど、結局のところ、その気分を変える(変えられる)のは自分で、その変え方も自分で見つけるしかないのだと思う。


まぁ無理に出かけなくてもいいし、寝て疲れをとることのほうが大事というときもあるし、疲れているからイライラする、滅入るという場合もあるので、そんなときは積極的に眠ることだ。眠れなくても、横になって体を休める。何度も深呼吸して、気分を落ち着かせる。それだけでも、あとあと違ってくると思う。横になって深呼吸は私もよくしていることなのだけれど、深呼吸を繰り返しているうちに、いつのまにか寝てしまっている。


イライラに囚われるのではなく、気分を変えようとする。積極的に好きなことをする。


今日はこのへんで。


他者に対してマイナスの可能性、ネガティブな結果予想ばかりするのはどうしてだろう。

考えたこと

その人自身が心配性なのかもしれないけれど、単純に心配性なだけどは思えないくらい、マイナスの可能性、ネガティブな結果予想ばかり口にする人がいて、正直言って辟易している。辟易するのは、もしかしたら、私が楽天的で、おおざっぱ、「まぁ大丈夫だろう思考」が強いからかもしれない。


その人とは話をしているとだんだん苦しくなる。相容れないというのは、人の多様性を認めてもなお、やはり感覚で、肌で感じてしまうもののようだ。相手も私の言動や態度にイライラしているようだ。こと細やかな対応を求め、期待し、しかしながら応えてもらえないことはストレスだろう。まぁ、こちらとしても自分のできること以上のことを求められても困るというものなのだが。


まぁ「その人はそういう人なのだ」と受け入れていまえば(諦めてしまえば)楽になるというのある。他者は変えられない。コントロールできない。マイナスの可能性を示唆し、ネガティブな結果予想を口にするのは、これまでその人が経験し、辛酸をなめてきたからかもしれない。失敗したくないという思いが極端に強いのかもしれない。それはわかるけれど、まだ大事にはなっていないのに「もし、~たら、どうするんですか」と声を荒げるのは、やめてほしいと思う。


他者に対してマイナスの可能性、ネガティブな結果予想ばかりするのは、おそらく結果予想する人自身が不安で、なにより他者を信じていない(信じられない)のかもしれない。どうして信じられないかはわからないけれど、他者不信が思考をネガティブにしているのはあるように思う。その人を信じて任せることができず、ついつい口出ししてしまう。もっとこうあるべきだ、と自分の考え方ややり方を押し付けて、相手と軋轢が生じて・・・。


自分の考え方ややり方が経験上とても良いものだとしても、他者に押し付けるのはよくない。自分の考え方ややり方が相手にとってBESTで良い結果になるとは言えないし、むしろ押し付けられて反発するかもしれないし、疎んじられるかもしれない。「やりたい放題を許せ」とは言わないけれど、でもやはり一人の人間としてやっていることは認めてほしい。


声を荒げる人は、不安なものを中に抱えているのだと思う。
不安や不満、モヤモヤが内々に溜まって、とても平穏を保てる状態ではないのだろう。
他者を信じられなくなるというのも、そういう状態なら仕方がないかもしれない。


まぁ仕方がないとは思うけれど、でもやっぱり声を荒げるのはよくないと思う。


そのうち落ち着くとは思うけれど、でもまぁそんな風に根拠なく勝手に予想するのは、これはこれで楽観的すぎるかもしれない。





読むたびに敗北感を感じるブログ

読むたびに敗北感を感じるブログがある。


ブログ名は書かないけれど、この人が書くものには敵わないなぁと素直に思う。


たぶん、経験していること考えていることが私の数倍も数十倍も多く、濃いのだと思う。


自分が書いていることの薄っぺらさを思い知らされる。汎用性を重視して書いているせいで、心の奥底まで降りてくるものがない。心を掴み、訴えるような、そんな文章もない。


でも、それでも、スタイルを変えようとは思わない。アクセス数のためにブログを書いているわけではないし、本当に読みたい人が読んでくれればいい。


評価の話と関係するけれど、仕事で思い切りダメだしされて、でも、その一個人の評価基準に振り回されて、凹みたくないと思った。ブログもしかり。わざわざ読む価値がない、みたいことを言われたことがあるけれど、それはその人の価値基準だ。広い世界。どこかに認めてくれる人がいるはず。続けていれば、きっと、いつかきっと。


あるブログを読んで敗北感を感じるのは、相手の価値を認めているからだと思う。そして自分が書くものと比べてしまう。比べて憂鬱になるのだけれど、でもまぁ、私の場合、こういうものしか書けないのだから仕方ない。


読むたびに敗北感を感じるブログ。


よく考えたら、こんなブログは、なかなかないと思う。


ブログは勝ち負けではないと言う人もいるかもしれないが、一度感じた敗北感はなかなか消えない。


簡単には消えないし、でもまぁそのままでもいいのではないかと思っている。




言葉にする練習

今思ってること

仕事が忙しく、ほとんど読書していないことに気づいた。
インプットが極端に少ないと、ブログを書きたいとかアウトプットしたいということもなくなるようだ。


つらつらと考え、いろいろと感じることはあるのだけれど、言葉が思うように出てこない。


考えたこと、感じたことは確かにあるのに、今は霧散して、無い。思い出せない。


いつのまにか、ただ時間だけがすぎて、ふと思う。


「わたしは何をしていたんだろう」と。


無我夢中。これは良い言葉なのだろうか。


仕事に夢中になるあまり、他のことがおざなりになっている。どうでもよくなっている、と書いてもいい。いろいろなことを言葉にするのが面倒になり、感情も平坦になり、なにより最近のことを思い出せない。


言葉にする練習をしたい。時間がない。めんどくさい、などと思わずに、言葉にすること。読書の習慣を復活させるとともに、考えたこと、感じたことを言葉にする練習をこれからしたい。




最近のことですら思い出せないのは、たぶん疲れているからだろう。
短くてもいいから、日々のことも言葉にして残していこうと思う。



感情類語辞典

感情類語辞典




評価を気にしていたら続けていられない。やってられない。

ブログでも仕事でもそうだけれど、評価を気にしていたら続けてられない。というか、「やってられない」という気持ちになる。評価は人によってさまざま。まぁ価値観や考え方も人それぞれ違うし、見ているだけ、話を聞いているだけでイライラする人もいるようで、なんというか、こちらとしてはどうしようもない。私は特定の人に迎合するようなことは書きたくないし、ましてや仕事も特定の人に気に入られるために仕事をしようとは思わない。まぁだからといって、わざと嫌われるようなこともしたくないし、私個人としては、マイペースで淡々と続けていくのが好きだ。


マイペースなのは今に始まったことではないけれど、自分のペースを守りたい、自分のやり方を大事にするあまりに聞く耳を持たなくなるのは、自分でもこわいなと思っている。


でもまぁ、自分のやり方を大事にするとともに、よりよくしていきたいという気持ちも強いので、変えることは嫌いではない。納得した上で変えたいというのはもちろんあるけれど。


評価でいえば、以前からわたしは自分に対する評価が低かったのだけれど、低い自己評価は「やる気の低下」「どうせやったって・・・」という気分になるので、よいことではないと気づいた。できないならできないなりに、今できるだけのことをするしかない。手持ちの札で、どうにかするしかない。そんな風に「開き直る」と強くなる。誰がどう評価しようと、気にしないことだ。人の口に戸は立てられないし、エゴサしたところで疲れるだけだ。


まぁ「開き直る」までには、それなりに時間がかかるもので、でも他者の評価をいちいち気にしなくなった分、仕事に集中できるようになった。好きなようにブログが書けるようになったというのはある。


もっとも、仕事の場合、ひとりよがりにならないようにしなければならないのだけれど、個人のブログだったら、むしろ、その人らしさが出ているほうが面白くてよいのではないかと。


その人らしさ、自分らしさって何だろうな、と思ったけれど、それはまた別の日に書くことにしよう。今日はこのへんで。


「他人の目」を気にせずに生きる技術

「他人の目」を気にせずに生きる技術

そろそろ人の目を気にするのやめませんか。〜人の評価が気になるあなたへ。〜

そろそろ人の目を気にするのやめませんか。〜人の評価が気になるあなたへ。〜



その会社しか知らないというのはシアワセなことなのか

ひとつの会社で十年以上働いている人の話を聞くことがあって、いやはや多少はオーバーに言っているところもあるかもだけれど、心の中で呟いてました。「ブラックな会社だなあ」と。


いつも仕事を持ちかえって家でしていたり、会社で残業しても少なめにしか申請していない(少なめにしか申請できない?申請しにくい雰囲気がある?)とか昼休みがちゃんととれない日もあるとか、とにかく人が足りなくて、忙しくて休めないとか。そういう状況だから、募集しても辞めてしまう人が多いとか(一応、古参の人もいる)。でもその人はその会社のことをものすごく褒めるし、この会社で働けてシアワセ、やりがいを感じてるみたいなことも言っている。


おそらく、ずっとその会社で働いている人にとって、そういうのは当たり前で、そういう会社が常態で、他を知らないというのもあって「会社」いうのはこんなものだよねと思っているのかな、と。


私の場合いろいろな業種で働いたことがあって、上記の会社に近いブラックな会社で働いたこともある。そこは、とにかく休めない会社で、会社と従業員の金銭トラブルの話とか聞くことも多くて、人間関係も良くなくて、ゴタゴタに巻き込まれる前に早く次を決めて会社を変わろうと……。でも結局1年くらいそこで働いたかな。でもまあ、その会社も長い人は十年とか十五年とか働いている人もいて、「いまさら他で働けない」みたいなことを言っている人もいて、なんというか、そういう会社であっても受け入れざるを得ないというか、いろいろトラブルは起きるけど、「またか」的な鷹揚さを見せる人もいて、その人はこれまでに何回も修羅場をくぐり抜けてきたんだなろうな、と。


いまさら他では働けない。とりあえず働き続けられるところがあるからシアワセ。よそはよそ。もっと労働条件がいいところがあるのも知っているけれど、自分がそこに採用されるとは限らない。条件がよいところ=おいしいところに人は群がるものだから。


あとは、「隣の芝生は青く見える」理論(?)。
他の会社は良く見える。うん。でも、実際は、やっぱりいろいろあってると思う。会社に限らず、人に関しても。表には決して出てこない内部でいろいろ問題を抱えていたり。


で、タイトルに戻るけれど、今働いているその会社しか知らないというのはシアワセなことなのか、ということ。よそを知らないから比べられないし、ずっとその会社で働いていて、その水に慣れてしまって、たとえその水が多少濁っていたとしても当たり前だと思ってしまう。


そこの水でこれまでなんとか生きて泳いできたわけで、しかしながらその水からあがり、全く違う新たな水に飛びこむというのは、本当に勇気がいることで、今よりはマシになるハズ!というのは、あくまでも希望的予想であって、現実はどうなるかわからない。


私など全く違う水に飛びこんで、溺れたら……と思ってしまう。若い頃のように体力もないわけだし、新しいことを覚えるのも正直苦手だ。特に人間関係。全く知らない人に囲まれて、また1から……となると臆してしまう。あとは、年をとっていると、それだけで転職は不利だ。よほどの能力やスキルを持っているとかでなければ。


とりあえずそこで泳いでいられるのであれば、無理に水から上がらなくてもいいのかな?と。もしかしたら、会社の状況が変わるかもしれないし(友人の会社ではお局様が急に会社を辞めて、とても働きやすくなったと言っていた)、様子見をするのも一つの手だと思う。でも、ブラック沼でもう泳げない、溺れる、沈没する(身体を壊す)というのであれば、早々に逃げ出すことだ。


長くなってしまったので、今日はこのへんで。


折れない強さについてつらつらと考えた

考えたこと

いろいろなことが重なって、しかもしばらく続いて、今余裕がない。精神的にポキリと折れそうで、自分でもいつまで保つかなと思ったり。


でもまあ、簡単には折れないだろうな、と思う自分もいる。


そう遠くない過去なのだけれど、サイテイサイアクだったころが実はあって、そのときよりは今はまだマシなように思える。


「まあ深刻に考えてもしょうがないし、いつか落ち着く日は来るはずだし、ひとつひとつやれるだけやるしかないよ、」そんな風に自分で自分をなだめ、励ましているようなところもある。


結局のところ、「折れない強さ」というのは、鋼のような、周りを寄せつけないような気丈さ、頑(かたく)なさではなく、「やわらかさ」だと思っている。やわらかく、しなやかで、長く伸びる竹のような、風で多少揺れることはあっても簡単には折れない強さが私が好むところだ。
そして「落ち着いていること」。これが折れない強さの根本を支えるものだと思う。私の場合、落ち着くためには疲れすぎないこと、無理しすぎないことが重要で・・・、まあ頭ではわかっている。が、どうにもセーブするというのがうまくできない。つい仕事に夢中になりすぎてしまう。細かいところまで気負いすぎてしまっているのかもしれない。


精神的に折れそうになるのも疲れすぎているから、無理しすぎているからであって、疲れがとれれば、無理をやめれば(セーブすれば)、調子は戻るかもしれない。調子を戻すには、私の場合「寝ること」で、睡眠は重要だ。


折れないためにも少しでも体を休め、いたわり、眠ることにしよう。


ものごとに動じない人の習慣術 (イラスト図解版)

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ものごとに動じない人の習慣術 (KAWADE夢新書)

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