私がはてなスターを外した理由

はてなダイアリーからはてなブログに移行して、なんとなくはてなスターを設置していたのだけれど、最近外した。
理由は、スターの多い少ないで一喜一憂したくないから。
ウケる記事やアクセス数が増えそうな記事を殊更書こうとは思っていないので、スターもはてなブックマーク数も二桁いくことは、ほとんどない。私はプロのブロガーでもないし、趣味で書いているブログなので、それでいいと思っている。


そうは言っても、以前、はてなダイアリーで書いていた頃は認められたいとか、多くの人に読んでもらいたいとか、そういう気持ちもあった。多分承認欲求を満たしたかったのだと思う。憑き物が憑いたみたいに日に何度も更新していたこともあった。


が、ある時期を境に、ブログへの執着が激減した。憑き物が落ちたと言ってもいい。


憑かれたように書いていた自分は今の自分とは別人のように思えて、正直9年もブログを続けていたという実感がまるでない。今では承認欲求は仕事のほうにシフトして、仕事で認められたいと、その一念で頑張り続けている。……否、認められようが認められなかろうが、私は自分の仕事をする。地道に続けていくうちに認めてくれる人も出てくるだろうし、何より自分で自分の仕事を認めたいと思う。


他者に承認を依存するとその承認が得られなかったとき落ちこんでしまうし、何よりも他者の承認、評価軸に振り回されてしまう。それは嫌だ。前にも書いたかもしれないけれど、自分のペースで、コツコツと、感情や気分に左右されない(ブレない)仕事をしたい。結局のところ、ブログも同じで、読んでくれる人は読んでくれるだろうし、まあ、はてなスターはいらないかな、と。


確かにスターをもらえたら、嬉しいけれど、でも書いてもゼロのときもある(ゼロだと少し凹む)ので、それなら、最初からないほうがいいかな、と。スターに関するスタンスはなかなか複雑で、承認欲求もまったくなくなった、というわけでもないし、そもそもこうして書いていること自体、承認をもとめているのかもしれない。


ただ、思うに、より多くの人から承認されたい、評価されたい、というより、承認してほしい特定の人に認めてもらえて、評価されることのほうが、難しいけれど、自分が欲していることのように思う。


まあ、欲しがっても欲しがっても、得られるとは限らず、それなら、いっそ最初からあきらめた方が、心理的には落ち着いていられるのかな、と。



話好きで、敬遠されている人

話すのが好きだと言う人がいる。知識も豊富だし、雑学もいろいろ知っている。プレゼンも得意そうだ。
でも、話好きが高じて、ついつい話が長くなる傾向があって、それが問題になった。クライアントのひとつの質問に対して、えんえんと説明し続けたそうだ。


「いや、そんなに長々と説明しなくても、まぁだいたいわかったから、それでいいから」というのが先方の本音だろう。これまでも何度も長話を我慢して聞いていたらしく、クレームが来た。


話を短くするよう上司から注意したらしいが、どこ吹く風。聞く耳を持たなかったらしい


話好き。でも話が長すぎて、周囲はその人を敬遠している。


本人はそのことに気づいているのだろうか。


気づいていたとしても、やはり根っからの話好きで、話し出すと止まらなくなるのだろうか。


いや、それでも、講演会ではないのだから、節度は必要で、相手がうんざりするほど話続けてはいけない。まだまだ話したい!と思っても、そこをグッとこらえて、サッと引く。引いて、少し物足りないくらいが、相手に負担がなく、好印象になるのではないだろうか。


「好印象」を与えなければならない人の話し方の習慣 (アスカビジネス)

「好印象」を与えなければならない人の話し方の習慣 (アスカビジネス)



曖昧な自分にうんざりしたのでブログを書く

言いたいことや考えたことをはっきりと言葉にできなくて、いつも曖昧。ぼんやりしている。
言葉にするのが苦手で、それでも日記やブログを書けば、少しは言葉にする練習、訓練になるのかなと、ポツポツ書いたりしている。


が、書いたところで、モヤモヤしたものは一向に晴れることはなく、自分は一体どこに向かっているんだろう?と、不安に似た焦燥感がこみ上げてくる。書いてもスッキリしない、むしろ逆効果なのであれば、いっそ書かない方がよいのでは?と思ってしまう。


いや、そうではないだろう。モヤモヤがいつまでも晴れないのは、きちんと言語化しきっていないから。それゆえ、いつまでもモヤモヤは鎮座し続ける。ただ、なんとなく、曖昧にモヤモヤと、なんとなくなんとなく。そして、うんざりしている。


その状態をいい加減どうにかしたい。


では、どうすればいいのか。


考えたのは、拙くてもいいから、思うことを書いてみるということ。何も名文を書く必要はないのだから、とにかく言葉にしてみる。結局のところ、言語化に慣れていなくて、ここは荒療治的にガシガシ書いたほうがよい気がする。


忙しいなら忙しいなりに思うことを書く。


今の状態を変えたいのであれば、動くしかない。


細かいことを気にすれば、ますますモヤモヤしていくばかりだ。


細かいことは気にしない。
気にしたところで何も変わらない。
自分で自分を疲れさせるだけだ。


曖昧な自分にうんざりしたのでブログを書く。


ブログを書いて、今の状態を変えたい。そんな風に思っている。




年齢の見えない壁

40代の知人の話。
とある会社のパートの採用面接を受けて、落ちたとのこと。彼女が言うには、同じく採用面接に来ていた30才くらいの女性の方が採用されたんじゃないかと。
「まあ、どうせ採用するなら少しでも若い人のほうがいいよね」と知人は溜め息。
知人が応募したパートの仕事は特に資格や経験を必要としない仕事なのだと思う。そういう仕事の場合やはり若い人の方が体力もあるし、動きもいいし、仕事のやり方などいろいろなことを覚えるにしても、若い人の方が覚えは早いだろう。
雇う側は若い人を求める傾向にあって、年をとっていると不利になるというのは現実にあるようだ。
「せめて私が32くらいだったらなあ」と知人は冗談ぽく言っていたが、もし仮に32才だったら同じ日に採用面接に来ていた人ではなく自分が採用されていた自信があったのだろうか。


思うに、女性が結婚や出産などで一度仕事を辞め、しばらくブランクがあって、また働き始めるというのは、相当大変なことで、そのまた働き始めようとしたときにぶつかるのが、「年齢の見えない壁」なのだと思う。
雇う側ははっきりとは年齢について制限は出さない。出さないけれど、応募者の年齢を一人一人チェックして最終的に採用不採用を決めているはずで、どうせ採用するなら少しでも若いほうがいいと考えるであろう。若いと体力もあって、物覚えも早くて、と考えるのは当然で、まあ年をとっていると、個人差はあるものの、図々しかったり、口ばかり達者だったり、年上風を吹かせたりで、扱いにくいとそう考えてしまうのも、いたしかたない。
年齢で差別しないでほしいと思うけれど、雇う側には雇う側の都合があるので、こればかりはどうしようもないのかなと。応募するとき年齢を詐称するわけにもいかないし…。
では、資格や経験があれば、年齢で差別されないのか、といえば、うーん。どうだろう。そのへんについては少し考えて、日を改めて書いてみたい。



将棋はじめました!

そういえば、これといった趣味といえるものが私にはないなぁと、ふと思ったわけで。
語学の勉強が趣味といえば趣味だったのだけれど、これはもう過去形かな。最近はほとんど勉強してなくて、うーん、読書も趣味といえば趣味だけれど、こちらは広く浅くで、語れるような作品はないかな。まぁ熱しやすく冷めやすいのかもしれない。でも再燃することもある。
で、最近再燃しているのが、『3月のライオン』で、こちらはアニメも今放送中なのだけれど(2016年11月現在)、つきあいとしては漫画のほうが長いわけです。
漫画の最新刊がこちら(2016年11月現在)

プロの棋士が主人公の漫画で、対戦ももちろん出てくるのですが、実のところ、私は将棋をあまり知らなくて、どういう駒があるかは知っているけれど、個々の駒の動ける方向とか、そういうのはだいたいしかわからない。漫画の中にでてくる、穴熊というのも、「なにそれ?」な状態。あとは「居飛車」も、聞いたことはあるけれど、よくわからない・・・。


将棋に詳しくなったら、きっともっとこの『3月のライオン』は面白いだろうなと、そう思ったわけで。あとは、帰省したときに家族で将棋できたらいいよね!とか。趣味として将棋を「よし、はじめよう!」というわけで、まずは将棋セットを買いました。超入門向けの。

NEW スタディ将棋 (リニューアル)

NEW スタディ将棋 (リニューアル)

Amazonでの評価が高かったと、駒の進める方角(矢印)が駒に書いてあるので、これはなんて親切!これは買い!でしょ!!と、サクっとポチりました。
駒も将棋磐も木の感じでよい感じ。
遊べる目安は5さい以上と書いてあるので、お子さんに将棋を教えたい人もよいかも。
とにかく、駒の進める方角(矢印)が駒に書いてあるので、便利。これならすぐに覚えられる!
でもまぁ、細かいルールもあるので、そのあたりは、これから覚えていきます。



コタツほど人を堕落させるものはないのでは?

コタツを出した!
コタツ布団のカバーを新調した!
コタツ布団のカバーというのは案外高いものだ。せっかく買うのだからと、気に入るものに出会うまで、探し回ってしまった。
コタツ布団は去年も使っているものだけれど、カバーが新しく気に入ったものなので、それだけでニンマリしてしまう。
目に入るもので気分が良くもなるし悪くもなるものだから、視界に入るもの、特に長時間視界に入るものは好みのもの、百歩譲って不快にならないものにしておきたい。気に入らないもの不快になるものは極力視界に入れないことだ。


コタツは一度入ると出られなくなるものだ。コタツの引力は凄まじい。その凄まじさに、私はひれ伏すしかない。そして、そのまま、うたた寝。うたた寝最高。うたた寝は気持ちよい。うたた寝から目が覚めたあとすっきり感が好きだ。


タイトルに「コタツほど人を堕落させるものはないのでは?」と書いたが、暖かさに身を委ねることが堕落というのなら、私は堕落してもいい。物理的な暖かさは心も暖かくしてくれる。心地良いこと(心地良くすること)、それは私にとって何より優先することだ。他にも暖房器具はあるけれど、私はコタツ推しだ。


外に出ればストレスフルだ。体力も精神力も削られまくる。疲れて帰ってくる。家の中でくらいリラックスしたい。だらだらしたい。ごろごろしたい。本を読んだり、好きなことをしたい。


冬という魔物と戦うには、武器が必要不可欠。その武器に、私はコタツを選ぶ。迷わず選ぶ。
魔物の息は長い。意外と長い。長期戦とわかっているなら、それ相応の策が必要だ。


いつのまにか1000字以上書いてしまった。
寒くなってきたのでコタツを出した。ただそれだけのことなのだけれど。でもやっぱり私にとっては特別なことだ。


コタツの圧倒的存在感。
その存在感に私はひれ伏す。
ひれ伏しながら、これを書いている。新しいコタツ布団カバーでちょっとハイテンションになりながら。




逃げ出したという記憶を残したくない

逃げ出したという記憶を残したくない。
そんな風に書くと、ブラック企業の格好の餌食になってしまいそうだけれど、でもまぁ逃げなければヤバイと思ったら逃げる。それはわかっている。自分を守るための逃げは有りだと思う。


ただ、安易に、まだやれるのに、まだ未練があるのに逃げ出したくない。つまりはそういうことだ。


仕事をしていて嫌なことは山ほどある。次から次へとモグラたたきのように現れてくる。でも、そのひとつひとつをシリアスに受け取っていたら、身がもたない。


どうしても譲れない一線というのは自分で決めている。そこを超えてこない限り、領空侵犯されない限り、まぁたいていのことはスルーしている。仕事を続けていくには「スルー力(りょく)」は必要だ。


適当にスルーしつつ、なんとかなんとかやっていくしかない。逃げ出したくない。まだまだやりたいこと、やってみたいことがある。やれるかどうか、それはやってみないとわからない。


逃げなかったら、たぶん、良いこともあると思う。
いつか良いことがあると信じて、なんとか進むしかない。




そういえば、逃げだす記憶といえば、「3月のライオン」でも似たような台詞があったような気がする。あれは、何巻だったろうか・・・・・・。