鞄に本。

鞄に本。かばんに本。


鞄と漢字で表記したほうが、なんとなくかっこいいと思うのは私だけだろうか。


もちろん電子書籍でもいいのだけれど、なんとなく、紙の本を一冊は鞄に入れておくようにしている。


通勤の電車の中で読めるだけ、読む。
時には、到着駅に着いたのに気づいて、あわてて降りたり、まだ降りる駅に着かなければいいのに、と思ったり。


本があれば、長時間の移動も苦にならない。むしろ、本が読めるのでうれしいくらいだ。電車では立っていても読むし、もし座れたら、それはラッキーで、通勤時間は絶好の読書タイムになる。


本を読んでいると、まぁ私の読書傾向にもよるのかもしれないけれど、書いている人は「ひとりが好き」だったり、とても自由人だったり、サバサバしていたりで、おそらく私自身そうなりたいから、そういう人が書くものをついつい読んでしまうのだと思う。


読んでいて、「ああ、わかるなぁ」という共感は、本を読んだからこそ感じるもので、自分が日ごろ感じていたことを言語化したような文章に出会うと、「そうそう」「それは私も思ってた」と、うれしくなったり、何かに書き留めたり、付箋をつけたりするのだけれど、付箋だらけになった本は、何度も読み返すし、おそらくそれは愛読書と言われるものになるのだと思う。


読書なんて、それぞれ好きなように読めばいいと思う。
まぁ、読書に限らず、人生も好きなように、できることをやっていけばいい。やっていけば、そのうちなんとかなるんじゃないかな、と自分に言い聞かせたり。


ブログにネガティブなことは、なるだけ書きたくないけれど、どうしても影みたいなのが文から見え隠れして、自分でもなんだかなぁと思うのだけれど、変に明るく装うのもイヤだし、かといって、あけっぴろげにオープンにできないのも、私らしいといえば私らしいか。しばらく、いろいろな本を読んで、なにか書きたくなったら、書くことにしよう。


最近読んだのは、

ひとりが好きなあなたへ (幻冬舎文庫 き 3-13)

ひとりが好きなあなたへ (幻冬舎文庫 き 3-13)

ひとりが好きなあなたへ

ひとりが好きなあなたへ


あとは、この詩集も好きで手元にあります。

詩集 すみわたる夜空のような (角川文庫)

詩集 すみわたる夜空のような (角川文庫)



「答えが出ない事態に耐える力」

白黒つけたくても、なかなかつけられない問題というのは、まあ何十年も生きていると出てくるものだ。
すっきりしないまま、なんとなく日々が過ぎていくのを、「これでいいのかなぁ」と思いつつも、「まぁとりあえず、いまのところいいんじゃないか」と漂うに任せているのが最近の私だ。


漂うというのは、少し不安でもある。不安でもあるけれど、もう10代20代のときのように両手両足をフルに使って泳ぐような体力は、もうない。


ネガティブなことも、そのうち受け入れてしまうというか、「まぁそんなこともあるよね」と、妙に達観してしまっていて、自分でも怖い。例えば、仕事でダメ出しされたり、仕事を減らされたり、そのときは凹むけれど、そう長くは凹まない。「まぁそんなこともあるよね」と。


ネガティブなできごとを、あとから何度も思い出し、反芻するのは、自分で自分の首をしめ、自分で精神的につらくさせているのと同じことだと、最近また思うようになった。思い出さないようにする、反芻しないようにするというのは、なかなか難しいことなのだけれど、つらい感情にひたること、怒りの感情を再沸させることは、最終的には自分自身の破壊、周囲の破壊、周囲との断絶につながりかねず、とはいえ、感情的にならないというのは、修行が必要というか、そう一日や二日ではできないものだな、と思ったり。


ネガティブなできごとによる感情のアップダウンは、まぁ仕方がないといえば仕方がないので、できるだけ、自分の中でおさめるというか、できるだけ凪の状態に持っていこうと最近はしている。激しい感情と吐露を避けるというか。


変えられないものは変えられないし、変わってほしくなくても変わってしまうものもある。曖昧でもやもやとしたものを抱えているのは、気持ちがよい状態ではないけれど、でもその状態に耐えられる自分でいたいというのがあって、そんなことを考えながら、

この本を読んでいる。


「答えが出ない事態に耐える力」
これが今まさに私がほしいと思っている力なのかもしれない。



生きづらさについて考えてみた。

生きづらいなぁと思うことがある。
なぜだか、よくわからないのだけれど、生きづらいと感じてしまう。
今日は生きづらさについて、答えは出ないかもしれないけれど、少し書いてみる。


ブレない自分でいようとすると、ガンコだと言われる。一匹狼的な気質が自分にあるのは薄々気づいていたのだけれど、最近、会社組織のもろもろの制約や暗黙の了解(慣例)が息苦しくて、仕方がない。もっと自由に自分の裁量(責任)でやりたいのに、しようとすると釘を刺される。今日も出る杭(くい)は打たれる的なことがあった。まぁそれも慣れっこなので、軽く受け流した。波風を立てたくなくて、素直に従う部分もある。一歩引くというか。相手の言うことにも一理あると思うから、真っ向からぶつかるようなことは、できればしたくない。相手には相手の考え方があり、やり方がある。それを否定すると、対立が生まれて、だいたいにおいてうまくいかなくなる。


それでも、あまりに引きすぎると、相手のやりたい放題、いいように使われることもしばしばで、それはもちろん面白くない。面白くなくて我慢していると、ストレスが溜まる。溜まっているストレスの自覚はあるのだけれど、なかなかそれを解消することができなくて、それが生きづらさにつながっているのかな、と思ったり。心身ともに疲れて、回復する間もなくて、それでつらいのかな、と。


生きづらいと思ってしまえば、それが呪いのように自分を縛ってしまうのだと思う。
もっとテキトーにおもしろおかしく生きることも、できるはずなのに、なかなかハジケルことができない。ハジケタところで、刹那的な、その場限りの楽しさなんだよ、ずっとは続かない、結局元に戻るだけなんだ、などと思ってしまう。


それでも、その場限りの楽しさだとしても、笑いや楽しみや息抜きは必要だと思うし、生きづらいと感じている自分を何かで救うような慰めるような、そういうものは人それぞれ何かあったほうがよいのだと思う。


ここまで考えてきたけれど、実際のところ、生きづらさの正体は、よくわからない。
わからないけれど、「なにかしら生きづらいもの」がいつも付きまとって、うまく息ができないでいる。常に肩や首をがっちり固められているような感覚が長いこと続いていて、どうしたら楽になれるのか、途方に暮れることもしばしばだ。



一方で、その生きづらさというものに、面と向かい合わないほうがいいのではないか、という気もしている。


生きづらさを意識すればするほど、生きづらくなる、それはあると思う。


繰り返しになるけれど、自分で自分を呪縛して、自分で自分を苦しめている・・・・・・、ということは、逆に言えば、呪縛を解くのも、自分自身で解くしかないということになるのではないか、と。


そして、考えてしまう。どうすれば、呪縛を解くことができるだろう。笑いや楽しみや息抜きで、この生きづらいという呪いは解けるのだろうか、と。


鈍感な世界に生きる 敏感な人たち

鈍感な世界に生きる 敏感な人たち

「敏感すぎる自分」を好きになれる本

「敏感すぎる自分」を好きになれる本

「コミュニケーション能力がない」と悩むまえに――生きづらさを考える (岩波ブックレット)

「コミュニケーション能力がない」と悩むまえに――生きづらさを考える (岩波ブックレット)

生きづらさからの脱却: アドラーに学ぶ (筑摩選書)

生きづらさからの脱却: アドラーに学ぶ (筑摩選書)



「よつばと!」14巻を読んで思ったこと。

発売日に買うマンガは本当に少ないのだけれど、「よつばと!」はその数少ない発売日に買うマンガのひとつだ。


ネタばれしない程度に読んで思ったことを書くと、「よつば」がいれば退屈はしないだろうな、と。なんというか、大人のほうが窮屈でやり方とか形式とか他者からどう見えるかとか気にしすぎで、簡単に言えば、いろいろなものに縛られているのが大人なのではないか、と。常識とか価値観とか自意識とか、まぁいろいろなものを抱えすぎてるのが大人で、成長していくにつれ、どうしても抱えてしまい、亀の甲羅のように背負ってしまうものなのかもしれない。


最近、「中年の危機」についての記事をいくつか読んだけれど、なんというか自分自身の限界みたいなものが見えてきて、急にやる気がなくなってしまって、途方に暮れるというのは、なんとなくわかる。結局「何者にもなれなかった」なぁと。あるいは、これから先「何者にもなれそうにない」なぁと。
何になるかははっきりとはしなくても、イキイキとしていられたり、無邪気になりたいものを即答できる子どもはいいなぁと思う。自分にもそういう時期があったのだけれど、今思えば、何も考えていなかったように思う。


で、何も考えていなかった、無邪気に夢を即答していたそういう時期に戻りたいかといえば、それはないと断言できる。第一、物理的に(?)子どもには戻れないのだし、今の私には亀の甲羅ががっしり背中に張り付いてしまっている。常識とか価値観とか自意識といった甲羅が。それでも、それは自分を形成する鎧みたいなものでもあって、鎧というのは、自分を守るために必要なものだと思う。


私にとって、子ども時代特有の、子どもが世界と対峙する様子を、そっと眺めているのが「よつばと!」を読んでいるときであり、なんといっても天真爛漫な(?)こどもらしいこどものよつばの言動に笑わされている。


今思っているのは、大人ももっと自由であっていいんじゃないかということ。いきなり甲羅をとることはできないかもしれないけれど、甲羅を背負いつつも、泳ぐことはできる。行きたいところに行くことはできる。言いたいことを言うことはできる。


もっとも、大人というのは見た目が変化しただけで、中身は「こども」という場合もあって、私など10代の頃好きだったアーティストの音楽を今でも聞いているので、好きなものとか趣向みたいなのは、そんなに変わらないんじゃないかと思ったり。マンガもあいかわらず好きだし。


最近も、あるマンガをまとめ買い(大人買いとも言う)したので、たいへん満足しているのだけれど、そのマンガについても、いつか書けたらいいな、と思ったり。


よつばと!(14) (電撃コミックス)

よつばと!(14) (電撃コミックス)



レベル1とかレベル2でしかないのに、レベル10の敵と戦うのは無理すぎる。

「レベル1とかレベル2でしかないのに、レベル10の敵と戦うのは無理すぎる」
というタイトルにしたけれど、これは本当にごく最近になってそう思うようになったので書いてみる。



先日思いがけず褒められることがあった。なんというか、大人になると褒められることは少なくなるものだ。希少で貴重な褒められ体験なのだけれど、仕事関係なので具体的には褒められた内容は書かない。簡単に言えば、「評価された」ということだ。評価されることは嬉しい。仕事を続けてきてよかったと思う。結局のところ、認められることで、精神的な安定や安心を得られるというのは、多分これからもずっと続くのだろう。


逆に言えば、否定されることはつらい。けなされて平気でいられる人は少ないだろう。けなされれば落ちこむし、無力感に苛まれたり、もう何もしたくないと思ったりもする。私にもそういう時期もあった。あったけれど、何もしたくないと逃げたところで、おそらく何も変わらない。逃げ出したいのを必死に踏みとどまったのは、自分でもよくわからないけれど、時間が経てば、痛みは薄らいでいくとそう思っていたからかもしれない。よく言われることだけれど、「時間は薬」だと思う。時間が経つうちに、けなされたこともどうでもよくなってきて、当時の自分はそれだけのレベルでしかなかったのだから仕方がないと、そう思うようになった。レベル1とかレベル2でしかないのに、レベル10の敵と戦うのは無理すぎる。でも、そのときは戦うしかなくて、見事に「しんだ」のだけれど、今なら思う。あの10レベの敵と戦うなら「違う戦い方をする」と。


まぁ、この「違う戦い方をする」というのも、少しずつ経験を積んだ今だから言えることで、経験がないうちは無様な負け方をしても仕方がない、仕方がなかったんだ、とそう考えるようになった。これから先また満身創痍で負けることもあるだろうけれど、まぁそのときはそのときだ。負けたら負けたで敗因を追求するだけだ。敗因を知っておいたほうが、同じ轍を踏まなくて済む。そういうことに気づいたのも、本当にごく最近だ。


けなす人は、求めるレベルが高いことが多い。その求めるレベルができない相手をけなすことで、その人を発奮させようとしている場合もあるし、単に自分がレベル上だということ示したい場合もある。「どうしてそれくらいできないの?」と。仕事でできないことを責められて、いたたまれなくなった時期もあったのだけれど、最終的には開き直って、現在に至っている。できないものはできない。レベル1か2の者に、要求が過大すぎるだろうと。他山の石として、私も他者に過大に要求しないように気をつけたい。


レベル1とかレベル2でしかないのに、レベル10の敵と戦うのは無理すぎる。
こてんぱんにやられたとしても、自分を必要以上に責めないように。


そして、レベルの上がり方というのは、まぁ人それぞれだから、早い人もいれば遅い人もいて、自分は後者だろうな、と。それがわかっていれば、いたずらに焦らなくてもいいのではないかと。


久しぶりのブログ更新になってしまったけれど、また書き留めておきたいことがでてきたら、書こうと思う。



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強い者が弱い者をおさえつけるということ

まぁ特に人間関係において、タイトルで書いたような「強い者が弱い者をおさえつける」ということは、ままあることかと。
パワハラという言葉もポピュラーになっている昨今だけれど、立場的に強い(上)人が弱い(下)の人に不快な思いをさせたり、口達者な人が口下手な人を言い負かしたり、言いくるめたり、私自身口下手なほうなので、言い負かされて悔しい思いをしたことは多々あって、でも、今だったら、言い返せるだろうな、と。言い返すだけの言葉が自分の中にあって、反論、論破することもできるだろうと、まぁ今更言っても仕方がないのだけれど、言葉や論破力を持ったところで、それを実際に使うことはしたくなくて、多分それは波風立てたくない平穏主義みたいなものが自分の中にあるからだと思う。


平穏主義というのは、一方で我慢を強いられることもあって、多少のことは平気な顔をしていないといけなくて、でも、それはそれでストレスだったりする。先日も胸が焼け焦げるくらい苦しい出来事があったのだけれど、必死に感情を抑え、じっと耐えるということがあった。感情を暴走させている人はもうスイッチが入ってしまって、止められない。燃えているものに油を注ぐようなことをしてはいけない。言い争ったところで良い着地点にたどり着くとは思えない。相手には相手の立場がある。相手には相手の言い分がある。それを真っ向から否定すると、相手はより強固に攻撃する。「否定=自分があやうくなる」ということ。自分の言い分を否定され、平気でいられる人はほとんどいないだろう。


と、ここまで書いて、平穏主義でいたいがために、強い者(上)に従順になりさがるそういうタイプなのかもなぁと、自分のことを情けなく思った。おさえつけられ、ストレスを溜めて、そのうち潰れそうな気がする。胸のうちには言えない言葉言いたかった言葉が降り積もり、それは幾層にも重なり、セメントのように固まっていくのだろう。


では、セメントのように固まったそれを抱え、潰れてしまわないためにはどうしたらいいのか。


相手と距離をとること。


それがいちばんに思いついたことだ。


強い相手と対峙し、反論、論破できれば、それはスッキリすることだろう。でも、論破された側が持つ悪感情、屈辱感的なものを考えると、必ずしも良い結果になるとは言えない。論破した優越感というのは、一時的なものだったりする。それよりは、静かに距離をとって、自分の安全圏を確保する。おさえつけられるのが嫌なら、おさえつけられないところまで離れてしまえばいい。相手が追いかけてきても逃げる。さりげなく逃げる。従順に従うのも癪にさわるし、言葉の矢が飛んでくるのも困る。攻撃的な性格というのはなかなか直らないものだろうから、繰り返しになるけれど、相手と距離をとるしかない。平穏のために。平穏がいちばんだと思う。ドキドキハラハラするのは、ドラマや映画だけで十分だ。


ほどよく距離を置きなさい

ほどよく距離を置きなさい



毎日ひとつ、ちがうことをやってみる

毎日が同じようなことの繰り返しで、ワンパターンでつまらないなぁと思うようになった。
平日は仕事と家の往復で、毎日似たようなものを食べ、飲み・・・。


ある日、同僚が話していたスイーツが食べたくなって、店を探して買いにいくことにした。
店の名前はわかっていたので、ネットで場所を調べ、仕事帰りに寄ることに。
ところが、その店が探せど、探せど、見つからない。電話番号もネットでは出ているけれど、わざわざ電話をかけて場所を聞くのもなぁ・・・とためらいつつ、ぐるぐると周囲を歩きまわっていると、一角に貼り紙が・・・。


貼り紙によると、そのスイーツショップは2月で閉店したとのこと。今は3月・・・・。ああああ。
一足遅かったか。


食べたかったスイーツは買えなかったけれど、でも実はぐるぐる歩いて探すのが楽しくて、知らないところを歩くのはなかなか刺激的だと思ったわけで。
日々をワンパターンでつまらなくしないために、毎日ひとつ、ちがうことをやってみようかと。ちがうことと言ってもおおげさなことじゃなく、前々からやってみたかったことをやってみるとか、行ってみるとか、食べてみるとか、飲んでみるとか、いつもとちがう音楽を聞いてみるとか、いつもは読まないようなジャンルの本を読んでみるとか、小さなことからひとつひとつチャレンジしたいなと。


↓ いろいろ書きこみたくて買った手帳です。
自分で日付を記入して書くので、いつからでもはじめられるところがよいです。

毎日チェンジ手帳

毎日チェンジ手帳