他者に対してマイナスの可能性、ネガティブな結果予想ばかりするのはどうしてだろう。
その人自身が心配性なのかもしれないけれど、単純に心配性なだけどは思えないくらい、マイナスの可能性、ネガティブな結果予想ばかり口にする人がいて、正直言って辟易している。辟易するのは、もしかしたら、私が楽天的で、おおざっぱ、「まぁ大丈夫だろう思考」が強いからかもしれない。
その人とは話をしているとだんだん苦しくなる。相容れないというのは、人の多様性を認めてもなお、やはり感覚で、肌で感じてしまうもののようだ。相手も私の言動や態度にイライラしているようだ。こと細やかな対応を求め、期待し、しかしながら応えてもらえないことはストレスだろう。まぁ、こちらとしても自分のできること以上のことを求められても困るというものなのだが。
まぁ「その人はそういう人なのだ」と受け入れていまえば(諦めてしまえば)楽になるというのある。他者は変えられない。コントロールできない。マイナスの可能性を示唆し、ネガティブな結果予想を口にするのは、これまでその人が経験し、辛酸をなめてきたからかもしれない。失敗したくないという思いが極端に強いのかもしれない。それはわかるけれど、まだ大事にはなっていないのに「もし、~たら、どうするんですか」と声を荒げるのは、やめてほしいと思う。
他者に対してマイナスの可能性、ネガティブな結果予想ばかりするのは、おそらく結果予想する人自身が不安で、なにより他者を信じていない(信じられない)のかもしれない。どうして信じられないかはわからないけれど、他者不信が思考をネガティブにしているのはあるように思う。その人を信じて任せることができず、ついつい口出ししてしまう。もっとこうあるべきだ、と自分の考え方ややり方を押し付けて、相手と軋轢が生じて・・・。
自分の考え方ややり方が経験上とても良いものだとしても、他者に押し付けるのはよくない。自分の考え方ややり方が相手にとってBESTで良い結果になるとは言えないし、むしろ押し付けられて反発するかもしれないし、疎んじられるかもしれない。「やりたい放題を許せ」とは言わないけれど、でもやはり一人の人間としてやっていることは認めてほしい。
声を荒げる人は、不安なものを中に抱えているのだと思う。
不安や不満、モヤモヤが内々に溜まって、とても平穏を保てる状態ではないのだろう。
他者を信じられなくなるというのも、そういう状態なら仕方がないかもしれない。
まぁ仕方がないとは思うけれど、でもやっぱり声を荒げるのはよくないと思う。
そのうち落ち着くとは思うけれど、でもまぁそんな風に根拠なく勝手に予想するのは、これはこれで楽観的すぎるかもしれない。
折れない強さについてつらつらと考えた
いろいろなことが重なって、しかもしばらく続いて、今余裕がない。精神的にポキリと折れそうで、自分でもいつまで保つかなと思ったり。
でもまあ、簡単には折れないだろうな、と思う自分もいる。
そう遠くない過去なのだけれど、サイテイサイアクだったころが実はあって、そのときよりは今はまだマシなように思える。
「まあ深刻に考えてもしょうがないし、いつか落ち着く日は来るはずだし、ひとつひとつやれるだけやるしかないよ、」そんな風に自分で自分をなだめ、励ましているようなところもある。
結局のところ、「折れない強さ」というのは、鋼のような、周りを寄せつけないような気丈さ、頑(かたく)なさではなく、「やわらかさ」だと思っている。やわらかく、しなやかで、長く伸びる竹のような、風で多少揺れることはあっても簡単には折れない強さが私が好むところだ。
そして「落ち着いていること」。これが折れない強さの根本を支えるものだと思う。私の場合、落ち着くためには疲れすぎないこと、無理しすぎないことが重要で・・・、まあ頭ではわかっている。が、どうにもセーブするというのがうまくできない。つい仕事に夢中になりすぎてしまう。細かいところまで気負いすぎてしまっているのかもしれない。
精神的に折れそうになるのも疲れすぎているから、無理しすぎているからであって、疲れがとれれば、無理をやめれば(セーブすれば)、調子は戻るかもしれない。調子を戻すには、私の場合「寝ること」で、睡眠は重要だ。
折れないためにも少しでも体を休め、いたわり、眠ることにしよう。

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「仕事はできるけど、いっしょに仕事をしたくない人」について考えた
「あの人は仕事はできるんだけど、同じチームにはなりたくない(いっしょに仕事をしたくない)んだよね」という話を聞いて、どういうことだろう?と思っていたら、どうやら「その仕事ができる人」は経験もあるし、他の人が4〜5時間かかる仕事を2時間で終わらせるらしい。要するに仕事がはやい。
確かに黙々とものすごく真面目に仕事をしていて、その人が大きな失敗をしたというのを聞いたことがない。仕事ができるのもあって人をあてにしない(頼まない)人だなあというのは私も感じていた。
ただ、仕事はできるけど、チーム内でも情報交換をあまりしようとしないらしく、そういえば雑談をしているところをほとんど見ない。ひたすら静かに仕事をしているのがその人のイメージで、まあ雑談ばかりで仕事が遅いのは問題だけれど、情報交換的な話はやはり必要だと思う。
黙々と仕事する姿から思うのは、「とにかく自分の仕事は完璧に」という考えがその人にあるのかもしれないということ。「私はちゃんと仕事してますよ?」と。
確かに仕事はしている。時間単位で2人分の仕事ができる人かもしれない。でも、チーム単位で仕事をしているので、自分の仕事さえ完璧ならそれでいい、というわけではない。問題点や改善すべき点はどんどん共有すべきだし、それだけ仕事ができる人なら仕事が遅い人(うまくいっていない人)に良いアドバイスもできるはず。まあ、人にアドバイスする(教える)のは苦手という人かもしれないけれど。
同じチームの人にもなかなかオープンになれず、つい寡黙に仕事をしているのかもしれない。寡黙なので何を考えているかわからないし、自分の仕事以外のことに無関心のようにも見え、仕事を頼まない代わりに誰かに頼まれることも無言で拒んでいるような、そんな感じもする。だから「仕事はできるけど、いっしょに仕事をしたくない」となるのかな、と。
寡黙ということに関しては、過去、私自身余裕がなさすぎて、自分の仕事をこなすのにいっぱいいっぱいで、雑談や情報交換もできず黙々も仕事をしていた頃があったので、人のことは言えない。まあ今も余裕があるわけではないのだけれど、チームで仕事をしているという自覚はある。雑談も情報交換も以前よりしている。日々、より良い仕事をしたいという思いも強い。昨日よりは今日、今日よりは明日と、もっと良くしていきたい。明日はあれをやってみよう、うまくいっていないところはこんな風に変えよう、そんなことを考えるのは本当に楽しい。変えることを面倒くさがらない。とにかくやってみる、行動に移す。それをモットーにしたいと今思っている。
仕事ができるなら多少コミュニケーションに問題があってもいいのか、変に周りを掻き乱すおしゃべりトラブルメーカーよりはいいのではないか。私だったら必要があればこちらから話しかけるし、その仕事ができる人は話しかければ普通に答えてくれるし、寡黙なのは問題はないのではないか。「仕事はできるけど、いっしょに仕事をしたくない」と言っている人は「そんなに仕事ができるのだから、チームの一員としてもっと自分や他の人を手伝ってほしい」ということだろうか。それが期待できないから、いっしょに仕事をしたくないと言っているのかな、と。できる人は自分の仕事をサクサク終わらせ、ほとんど残業なしで帰っているらしい。それをうらやましく(嫉ましく?)思う気持ちの裏返しで、いっしょに仕事をしたくないと言っているのかもしれない。
長くなってしまったので、今日はこのへんで。
電話をいきなり切る人について考えたこと
いきなり電話を切る人(仮にAさんとする)がいて、なんとも後味が悪く眉間にしわを寄せることがしばしばある。
昨日の電話は
Aさん「△△が何度やってもエラーになるんだけど・・・」
私「ああ、それは××してますので、○○したら、たぶん大丈夫です」
Aさん「○○の仕方がわからないんですけど・・・」
私「○○は~~して、・・・・・・したらいいです」
プツッ(電話が切れる)ツーツーツー
「わかりました」も「やってみます」も何もなし。
要するに「知りたいことがわかったら、それでOK。余計なことは言わない」という感じのようで、まぁ単刀直入で電話も短時間で終わっていいといえばいい。でもまぁ最初にそれをやられると面食らう。実際私は面食らった。(今は慣れて「またか」と思うようになった)
電話をいきなり切るのはその人のクセ・習慣で、その人はそういう人なんだ。その人はそういうことをする人なんだと認めると楽になったように思う。クセや習慣を含め他者の言動を変えることは難しいし、他者を変えることはできないと思ったほうがいい。習慣にも近いものがあるのだけれど、マナーが身についているかどうかは、子どもの頃に教えられているか学んでいるかにも大きく左右されるし、マナーを知らないまま大人になった人も実際多い。自分の常識は他者の常識ではないし、自分ができること、自分が普段やっていることを他者もできるとは限らないし、他者もやっているとは限らない。相手ができない、やらないを責めはじめるとそれはケンカやトラブルの元になる。アグレッシブに言えば相手もアグレッシブに返してくるものだ。
「他者を変えることはできない」と書いたけれど、「北風と太陽」の太陽のスタンスなら、もしかしたら変えられるかもしれない。しかしながら、その人にはその人のクセや習慣、考え方があり感じ方がある。そこのところをわかったうえで、なんとかうまく折り合いをつけてやっていくのが大人のやり方だと思うし、よほど「人としてどうよ?」「それって倫理的にあるいは法律的に問題あるんじゃ?」というレベルのものではない限り、スルーの方向で(波風を立てるのが私は好きではないので)。もちろん、「人としてどうよ?」「倫理的に法律的に問題だよ?」というときは怒っていいし相手にきちんと言うべきかと。
電話をいきなり切る人(Aさん)は、まぁ悪気はないのだと思う。その人のクセで習慣。メールも「了解」それだけで返ってくるから。(電話とちがって、「了解」だけでも返ってくるからまだいいかもしれない)その人は短時間短文主義なのかもしれない。お互い忙しいんだし余計なことは言わない主義みたいな。まぁそういう人も世の中にはいるということで、やたらに長電話、長文メールの人よりはいいかもしれない。時間をとられなくて。
自分を否定する自分からの卒業
能力的な限界を感じたり、どうしてこんなにダメなんだろうと自分に自信が持てなくて、自分で自分を否定することもしばしば。時に拒絶に近いくらいの嫌悪感を持ってしまうこともある。
すぐにその思考は危険だと打ち消すのだけど、どうしてこう自分に寛容になれないのか、許せないのかと、しばし考えてしまう。
他の人ができることが自分にできない。それはひどく私を落ちこませる。
努力が足りないのだろうか?
そもそも能力がないのだろうか?
能力は限界はあっても高めることはできると思うし、経験が能力にプラスされていくというのはあるように思う。
自分を否定してしまうのは、できないことに焦点をあててしまうからだと思う。できることもあるはずなのに。
できること、できたことに目を向けることで、少しは自分というものを認められるようになるのではないか。
できないことではなく、できることを見つける。伸ばしていく。何かできそうなことを片っ端からやってみる。失敗するのは仕方がないことだと割り切る。誰かと比べてどうこう愚痴るのではなく、自分の目標を持つ。自分はどうなりたいのか、どういうことを求めているのか。それは高すぎるものではないか。普通自動車免許しか持っていないのに大型トラックを運転しようとしていないか。まだ働きはじめてまもないのに10年以上勤めた先輩と自分を比べて落ちこんでいないか。
自分を否定する自分からの卒業。
自分というものは、考えれば考えるほどわからなくなるもので、他の人が見ている自分と自分が思う自分は違っている。否定する自分は他の人から見れば羨ましいものかもしれないし、どうしてそんなに自信がないのか首をかしげる人もいるだろう。
言っている本人が「自信がない」と言っているのだから、自分で自分に呪いをかけているようにも思える。自分で自分にかけた呪いに苦しんでいるのを、本人は気づいていない。呪いを解くのは自分しかいない。
自分を否定するのはつらい。できること、できたこともあるのだから、そんなに否定しなくてもいいのではないか。この際できないことは振り切って、できることに集中していくほうが前向きになれて精神衛生上も良いかもしれない。
誰かに、あるいは多くの人に認めてもらえなくても、自分は自分。この自分とどうにかうまくつきあっていくしかない。まずは自分を否定する自分から卒業したい。
失敗恐怖症を克服するということ
今までミスや失敗で凹むことが多い人生だったなあと、珍しく振り返りながら思ったわけで。
凹みからの復活は以前より早くなったけれど、失敗する怖さ恐怖にいつも付きまとわれストレスは日々溜まり続ける一方で。
私の場合、元々完璧主義というか完全主義っぽいところがあって、いいかげんなことが嫌いという弱点があった。手抜きという言葉もいつまでたっても好きになれそうにない。
一方で手早く要領よくやる人に憧れたりもするわけで。
まあ自分がやること、特に仕事に関してミスや失敗、手抜きが許せず、かかる時間や手間ヒマがものすごいことになっていて自分で自分の首を絞めていることは薄々わかっていて、とうとう息詰まったことを確認したのが本日の午後。
今、仕事帰りにカフェでこれを書いる。多分ブログにアップすると思う。
失敗するんじゃないかと怖じ気づいている自分を笑っている自分がいる。
そんなに気が小さい人じゃないでしょ?と。
気が小さかったら、不特定多数の人が読むブログなんて書けないでしょ?
失敗するのが怖いのはプライドが高いからでは?
失敗して惨めな気分を味わいたくないからでは?
本当はこんなに仕事ができるんですよ、と胸を張りたいだけでは?
もうひとりの自分が冷ややかに囁く。
その道何十年のベテランでもないんだから、あきらめなさい。失敗はするものです。失敗して痛い思いをして学んでいくのです。
なんというかわかった風に言われると、反論したくなるのも事実で…。
やっぱり失敗はしたくないよ。こわいよ?
その失敗したくないという強い気持ちがストレスになって、逃げ出したくなっていて、さて、どうしよう。←イマココ!
人の少ないカフェ。ひとりコーヒーを飲みながら考えた。
とりあえず、完璧主義、完全主義をやめようかと。
8割できたらそれで良しとしようかと。
逃げて0にしてしまうよりは、8割でOK。合格。次に行って良し。
私の場合「もっとできるはず」と自分に期待や負荷をかけがちで、それはいつのまにか重いストレスとなって首を絞めていて、このへんで断ち切らないと折れる。心折れる。
折れる前になんとかする。
80%でよし。人は完全完璧じゃない。失敗することもある。失敗しなかったら相当ラッキーだと思うこと。失敗恐怖症を克服するにはそう考えるのが良いのではないかと思ったので書いてみた。
失敗恐怖症を克服できたわけではないけれど、考え方を変えることで怖さは減るのではないだろうか。
今までなんとかなってきたから、大丈夫。これからもなんとかなる。そう思うと少し楽になる気がする。良い暗示を掛けるようにしたいものだ。
とりあえずこうして書くことでいろいろと気づいたこともあったのでよかった。書くことはオススメだ。
努力してもうまくいかない上に嫌われることがあるということ
どんなに頑張っても努力してもうまくいかなくて、さらには嫌われることがあるということ。かなりつらいことだけれど、ずっと思っていたことなので、落ち着いて言葉にしてみようと思う。特定うんぬん個人情報うんぬんを考慮して具体的にではなく抽象的に少しのフェイクも入れて書く。
努力してもうまくいかず、さらには嫌われてしまうのだから、なんともやりきらない気持ちでいっぱいで、ずっとモヤモヤが続いていた。あんなに頑張ったのに…という気持ちが強くて、今思えば必死に自分なりに努力していたけれど、冷静になって考えてみると、その頑張りは相手に伝わっていなかったのだと思う。
まあその時は頑張った。できることはしていたのだから、それでダメになるのなら、それはもう仕方ないんじゃないかと時間が経ってそう思うようになった。
私としては精いっぱい頑張ったけれど、それでも不器用で、相手が期待するような結果を出せなかったのも事実で、まあ他にもいろいろと気に食わなかったこともあったらしく、嫌われたのは事実だと思う。相手も大人なので面とはそういうことは言わないし、少しずつ距離を置いて、そのうちメールの返信もなくなった。壁を作られたと言ってもいいかもしれない。
今では返信がないのは相手の都合だからと諦めている。そして思う。ずっと努力し続けないと続かない関係というのはなかなかしんどいものだと。相手に合わせ努力し頑張り続けることは、悪いことではないけれど、その努力に見合うだけのものがないと、虚しくなるし疲れてくる。凡人なので、努力したら報われることをやっぱり望んでしまう。
関係がうまくいっていないことを薄々感じながらも「これだけがんばっているのだから」と意固地になってやめられないもしばしばあるように思う。その場合、執着し続けている自分、諦めきれないでいる自分を客観視できていないのだと思う。無理をしている関係はいつか破綻する時が来る、認めたくないかもしれないけれど、それはありうることだ。
「努力は必ず報われるとは限らない」こう言い切ってしまうとなんだか悲観的で冷めた人のように思えるけれど、いろいろなことを経験した結果「まあ報われないこともあるんだよね」くらいのことは頭の片隅に置いておきたいと思う。
私に人間的に欠落した部分があるとか思慮が足りないとか、自分を責めたこともあったけれど、それもつらいことで、結局のところ、もう割れてしまった皿を元どおりにすることは不可能で、相手も元どおりにすることを望んでいなくて、「こぼれたミルクを泣いてもムダ」ということになるのだろう。
努力してもうまくいかず嫌われることがあるということ。
相手の気持ちや行動は縛れないしコントロールできない。
自分なりに頑張った。一生懸命やった。たいしたことはできなかったかもしれないけれど、でも頑張った。努力した。
もうこれ以上頑張っても関係を良好なものに転換できないのであれば、努力を打ち切るのも有りだと思う。とても勇気がいることだけれど。
嫌われた理由は複数あると思う。怖くて聞けないし、メールの返信もないので、今更コンタクトも取りづらい。はっきりした決定的な理由を知ったら知ったで落ちこむだろうし、先方もはっきりさせたくないかもしれない。理由ははっきりとはいわないのだけれど、まぁとにかくよく思われていないのはわかる。そこに私の居場所はなく、一言で言えば「縁がなかった」のだと思う。まあ、簡単に「縁がなかった」で片づけてしまえるほど、心の整理はついていなくて、やはりどこかで執着し、諦めきれていないのかもしれない。自分でもまだよくわからない。
でもまあ、今現在やるべきことが山ほどあるので、そちらにエネルギーを注ぐほうが建設的だと思う。時折思い出して泣きたくなることはあるけれど、その回数は少しずつ減っていくとよいなと思う。努力が報われなくて悔しくて、それで泣きたくなるのかもしれないし、まだまだうまくやれると思っていた自分の甘さが情けなくて、それで泣けてくるのかもしれない。
これを書きながら、過去は過去、学んだことも多かったのだから、今は自分ができることをしっかりやり続けるだけだと言い聞かせている。自分を成長させるのは自分。振り返るのはやめて、頑張っていくことにする。