強い者が弱い者をおさえつけるということ

まぁ特に人間関係において、タイトルで書いたような「強い者が弱い者をおさえつける」ということは、ままあることかと。
パワハラという言葉もポピュラーになっている昨今だけれど、立場的に強い(上)人が弱い(下)の人に不快な思いをさせたり、口達者な人が口下手な人を言い負かしたり、言いくるめたり、私自身口下手なほうなので、言い負かされて悔しい思いをしたことは多々あって、でも、今だったら、言い返せるだろうな、と。言い返すだけの言葉が自分の中にあって、反論、論破することもできるだろうと、まぁ今更言っても仕方がないのだけれど、言葉や論破力を持ったところで、それを実際に使うことはしたくなくて、多分それは波風立てたくない平穏主義みたいなものが自分の中にあるからだと思う。


平穏主義というのは、一方で我慢を強いられることもあって、多少のことは平気な顔をしていないといけなくて、でも、それはそれでストレスだったりする。先日も胸が焼け焦げるくらい苦しい出来事があったのだけれど、必死に感情を抑え、じっと耐えるということがあった。感情を暴走させている人はもうスイッチが入ってしまって、止められない。燃えているものに油を注ぐようなことをしてはいけない。言い争ったところで良い着地点にたどり着くとは思えない。相手には相手の立場がある。相手には相手の言い分がある。それを真っ向から否定すると、相手はより強固に攻撃する。「否定=自分があやうくなる」ということ。自分の言い分を否定され、平気でいられる人はほとんどいないだろう。


と、ここまで書いて、平穏主義でいたいがために、強い者(上)に従順になりさがるそういうタイプなのかもなぁと、自分のことを情けなく思った。おさえつけられ、ストレスを溜めて、そのうち潰れそうな気がする。胸のうちには言えない言葉言いたかった言葉が降り積もり、それは幾層にも重なり、セメントのように固まっていくのだろう。


では、セメントのように固まったそれを抱え、潰れてしまわないためにはどうしたらいいのか。


相手と距離をとること。


それがいちばんに思いついたことだ。


強い相手と対峙し、反論、論破できれば、それはスッキリすることだろう。でも、論破された側が持つ悪感情、屈辱感的なものを考えると、必ずしも良い結果になるとは言えない。論破した優越感というのは、一時的なものだったりする。それよりは、静かに距離をとって、自分の安全圏を確保する。おさえつけられるのが嫌なら、おさえつけられないところまで離れてしまえばいい。相手が追いかけてきても逃げる。さりげなく逃げる。従順に従うのも癪にさわるし、言葉の矢が飛んでくるのも困る。攻撃的な性格というのはなかなか直らないものだろうから、繰り返しになるけれど、相手と距離をとるしかない。平穏のために。平穏がいちばんだと思う。ドキドキハラハラするのは、ドラマや映画だけで十分だ。


ほどよく距離を置きなさい

ほどよく距離を置きなさい