生きづらさについて考えてみた。

生きづらいなぁと思うことがある。
なぜだか、よくわからないのだけれど、生きづらいと感じてしまう。
今日は生きづらさについて、答えは出ないかもしれないけれど、少し書いてみる。


ブレない自分でいようとすると、ガンコだと言われる。一匹狼的な気質が自分にあるのは薄々気づいていたのだけれど、最近、会社組織のもろもろの制約や暗黙の了解(慣例)が息苦しくて、仕方がない。もっと自由に自分の裁量(責任)でやりたいのに、しようとすると釘を刺される。今日も出る杭(くい)は打たれる的なことがあった。まぁそれも慣れっこなので、軽く受け流した。波風を立てたくなくて、素直に従う部分もある。一歩引くというか。相手の言うことにも一理あると思うから、真っ向からぶつかるようなことは、できればしたくない。相手には相手の考え方があり、やり方がある。それを否定すると、対立が生まれて、だいたいにおいてうまくいかなくなる。


それでも、あまりに引きすぎると、相手のやりたい放題、いいように使われることもしばしばで、それはもちろん面白くない。面白くなくて我慢していると、ストレスが溜まる。溜まっているストレスの自覚はあるのだけれど、なかなかそれを解消することができなくて、それが生きづらさにつながっているのかな、と思ったり。心身ともに疲れて、回復する間もなくて、それでつらいのかな、と。


生きづらいと思ってしまえば、それが呪いのように自分を縛ってしまうのだと思う。
もっとテキトーにおもしろおかしく生きることも、できるはずなのに、なかなかハジケルことができない。ハジケタところで、刹那的な、その場限りの楽しさなんだよ、ずっとは続かない、結局元に戻るだけなんだ、などと思ってしまう。


それでも、その場限りの楽しさだとしても、笑いや楽しみや息抜きは必要だと思うし、生きづらいと感じている自分を何かで救うような慰めるような、そういうものは人それぞれ何かあったほうがよいのだと思う。


ここまで考えてきたけれど、実際のところ、生きづらさの正体は、よくわからない。
わからないけれど、「なにかしら生きづらいもの」がいつも付きまとって、うまく息ができないでいる。常に肩や首をがっちり固められているような感覚が長いこと続いていて、どうしたら楽になれるのか、途方に暮れることもしばしばだ。



一方で、その生きづらさというものに、面と向かい合わないほうがいいのではないか、という気もしている。


生きづらさを意識すればするほど、生きづらくなる、それはあると思う。


繰り返しになるけれど、自分で自分を呪縛して、自分で自分を苦しめている・・・・・・、ということは、逆に言えば、呪縛を解くのも、自分自身で解くしかないということになるのではないか、と。


そして、考えてしまう。どうすれば、呪縛を解くことができるだろう。笑いや楽しみや息抜きで、この生きづらいという呪いは解けるのだろうか、と。


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