コタツほど人を堕落させるものはないのでは?

コタツを出した!
コタツ布団のカバーを新調した!
コタツ布団のカバーというのは案外高いものだ。せっかく買うのだからと、気に入るものに出会うまで、探し回ってしまった。
コタツ布団は去年も使っているものだけれど、カバーが新しく気に入ったものなので、それだけでニンマリしてしまう。
目に入るもので気分が良くもなるし悪くもなるものだから、視界に入るもの、特に長時間視界に入るものは好みのもの、百歩譲って不快にならないものにしておきたい。気に入らないもの不快になるものは極力視界に入れないことだ。


コタツは一度入ると出られなくなるものだ。コタツの引力は凄まじい。その凄まじさに、私はひれ伏すしかない。そして、そのまま、うたた寝。うたた寝最高。うたた寝は気持ちよい。うたた寝から目が覚めたあとすっきり感が好きだ。


タイトルに「コタツほど人を堕落させるものはないのでは?」と書いたが、暖かさに身を委ねることが堕落というのなら、私は堕落してもいい。物理的な暖かさは心も暖かくしてくれる。心地良いこと(心地良くすること)、それは私にとって何より優先することだ。他にも暖房器具はあるけれど、私はコタツ推しだ。


外に出ればストレスフルだ。体力も精神力も削られまくる。疲れて帰ってくる。家の中でくらいリラックスしたい。だらだらしたい。ごろごろしたい。本を読んだり、好きなことをしたい。


冬という魔物と戦うには、武器が必要不可欠。その武器に、私はコタツを選ぶ。迷わず選ぶ。
魔物の息は長い。意外と長い。長期戦とわかっているなら、それ相応の策が必要だ。


いつのまにか1000字以上書いてしまった。
寒くなってきたのでコタツを出した。ただそれだけのことなのだけれど。でもやっぱり私にとっては特別なことだ。


コタツの圧倒的存在感。
その存在感に私はひれ伏す。
ひれ伏しながら、これを書いている。新しいコタツ布団カバーでちょっとハイテンションになりながら。




逃げ出したという記憶を残したくない

逃げ出したという記憶を残したくない。
そんな風に書くと、ブラック企業の格好の餌食になってしまいそうだけれど、でもまぁ逃げなければヤバイと思ったら逃げる。それはわかっている。自分を守るための逃げは有りだと思う。


ただ、安易に、まだやれるのに、まだ未練があるのに逃げ出したくない。つまりはそういうことだ。


仕事をしていて嫌なことは山ほどある。次から次へとモグラたたきのように現れてくる。でも、そのひとつひとつをシリアスに受け取っていたら、身がもたない。


どうしても譲れない一線というのは自分で決めている。そこを超えてこない限り、領空侵犯されない限り、まぁたいていのことはスルーしている。仕事を続けていくには「スルー力(りょく)」は必要だ。


適当にスルーしつつ、なんとかなんとかやっていくしかない。逃げ出したくない。まだまだやりたいこと、やってみたいことがある。やれるかどうか、それはやってみないとわからない。


逃げなかったら、たぶん、良いこともあると思う。
いつか良いことがあると信じて、なんとか進むしかない。




そういえば、逃げだす記憶といえば、「3月のライオン」でも似たような台詞があったような気がする。あれは、何巻だったろうか・・・・・・。





意見を認めようとしない人について考えてみた

なんといいますか、私に対してだけではないと思うのですが、発言した意見を認めようとしない人がいて、必ず反論的な意見を頂戴します。最近はその人と話すのも億劫になっていて「どうせ話してもアレコレ否定的なことを言われて、最終的には相手の意見をねじこまれるだけだしなあ」とウンザリするパターンの繰り返しだったりします。


私の意見が未熟だとか、くだらないとか、そういう風に思っているのかもしれないし、自分の意見の方が優れている、経験的にも実力的にも自分の方が上だと本人も思っていて、まあそれは否定しませんが、でも下の者の意見をそう簡単に潰していいものなのかと思うわけです。とりあえず聞くは聞くけど、でも認めない、採用しない、検討にも値しない、みたいな態度は、反感を買います。そのことに本人は気づいているのか、かなり疑問かな。


薄々気づいていても、でも曲げられないんだろうと思います。自分の意見ややり方を。それまでのキャリア(経験)や自分の職人的な気質が他を認めたくない、部下は黙って従って、結果だけ報告すればよし、みたいな。


まあ黙って従ってやることだけやっていればいいというのは、楽ではあるけれど、なんというか、仕事をしながら感じる違和感は、もう溜まっていくばかりで、だからこそ意見するわけですが、「いちいちうるさいなあ」とか思われていそうで、でもまあ仕事なので、やはり言うべきことは言いますね。言って認められないとしても、それでも言う。そういうスタンスはブログを書き続けていることで身についたかもしれません。


そのうち真っ向から対立することになるのかな、とも思いますが、波風をたてるのは好きではないので、その時は適当に折れます。折れるのは嫌ではないです。相手を打ち負かして、以後険悪な関係になるよりは、一歩引く方を選びます。


対立する意見といっても、どちらが本当に正しいかわからないことはよくあります。ずっと後になってわかることもあるし、どっちもどっちだった(どちらも正しくなかった)ということも。


他者の意見を認めようとしない人は、たぶん今、余裕がないのだと思います。簡単には認めたくないとか他者の意見に従えないプライドがあったり、自分の意見、やり方に自信や確信があったり、それはその人を支えるものでもあるので、他者は否定してはいけない。たとえ、砂の楼閣であっても、それを他者が崩していい理由はない。


余裕がある人は、自分の意見があってもそれを押しつけたり、ねじこんだりはしないんじゃないかと思います。相手の意見をうまく取り入れつつ、かつ自分の意見ややり方も継承させるような、まあ理想論でしかないかなあ。やっぱり少しは私の意見も聞いてほしい、認めてほしいと思っているのかもしれません。


長くなってしまったので、このへんで。


眠るのがこわい

ここのところ夢見が悪くて、怖い夢、嫌な夢ばかり見ていて、眠るのがこわい。


忙しかったり、ストレスが溜まっているせいで悪夢を見るのかもしれない。眠ってストレスを解消するつもりが、逆に悪夢のせいでストレスが溜まってしまって、本当によくない。寝ても疲れがとれず、回復できないでいる。


夢は昔からよく見るほうだった。でも悪夢ばかり見るようになったのは最近だ。


眠くはなるけれど、また悪夢を見るんじゃないかと思うと、眠るのがこわくなる。


見る夢をテレビのチャンネルを選ぶみたいに、見たい映画を選ぶみたいに選べれば、眠るのが楽しみになるのにね…。



こつこつ勉強するために、もう一度読み返したい記事2つ

komoko.hatenablog.com
komoko.hatenablog.com
過去こういう記事を書いたりしているけれど、最近は仕事が忙しく、勉強ができていない。


けれど、今日、こつこつと勉強している人の話を聞いて、私も勉強したくなった。


毎日仕事が忙しいのはその人も私も同じだ。
以前のように時間を決め、その時間、テレビもネットも見ないで勉強しようと思っている。


一度は達成した。資格試験に合格した。次の試験をまた受けるつもりで勉強していたけれど、次の試験は難しく、わからないことばかりで、やる気がだんだんなくなっていった。合格率も低いその試験にすっかり怖気ついたとも言える。


いっそこういうブログという場で勉強することを宣言したほうが、もしかしたら少しは勉強が続くかもしれない。上記の記事を読み返して、またこつこつ勉強したい。


こつこつ勉強する。
毎日30分でも。
アレコレ言い訳せずに勉強しよう。


毎日往復1時間で受かる!  資格試験「通勤電車」勉強法

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「1年続ける」勉強法―どんな試験も無理なく合格!

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「相手の言うことにも一理ある」と考えると、イライラ・モヤモヤが消えた。

人の数だけ考え方がある。まぁ頭ではわかっていても、「なんでそんな風に言うんだろう?」「どうしてそういうやり方でやるの?」と思うことが仕事でしばらく続いていた。


「考え方の違い」と書けばシンプルそうに見えるけれど、ふたつの考え方には深い溝があって、お互い相手の真意をつかめないでいて、「本当のところどう考えてるの?」とお互い言い出せないでいるみたいな、そういうことは私の場合よくある。


率直に意見や考えていることをばんばん言ってくれる人だとよいけれど、なかにはそんなにオープンにはしない人もいるもので、そういう人は、小出しに出てくる言葉を汲み取るしかない。無理に聞き出そうとしないこと。自分のパーソナルスペースに踏み込まれることを嫌う人や他者の言葉で心の安寧をかき乱されたくない人もいる。わたしもそういうタイプなのだけれど、自分が無遠慮に踏み込まれたくないからこそ、わたしも遠慮する。波風を立てたくないし、立てられたくない。


とはいえ、仕事だとそうも言っていられない。小出しにしながらも、「どうして?」「なんで?」と思うことは出てくる。


理由を直接聞ければいいのだけれど、直接聞けない場合もあるし、相手がうまく言語ができない場合もある。そういうときは、相手がそうする理由を想像することにした。どうして、そうするのか。一体何を目的にそうするのか。その人はどうしたいのか。その人が見据えているゴールを想像してみる。もしかしたら、そのゴールはわたしが思うゴールと違うかもしれない。


実際、違った。相手が見据えているゴールは、わたしが思い描いていたゴールよりもはるかに上のゴールで、なんというか、わたしは自分の近視眼的な視界を恥ずかしく思い、うなだれてしまった。目の前のことをこなし、とにかく先を急ぐことしか考えていなかった。


「相手が言うことにも一理ある」
相手も考えて仕事をしている。むしろ、自分よりももっと俯瞰的に全体を見て、仕事をしている。相手が見据えたゴールがわかって、わたしは相手のやり方を尊重しようと思った。むしろ、そのやり方のほうがよいと思った。やっとイライラ・モヤモヤが消えた。


相手の言うこと・することの背景、見据えているもの(ゴール)を想像するようにしようと思った。変に勘ぐってもよくないけれど、でも相手には相手の考え方や事情があるのだから。



燃え尽きかけて思ったこと

この夏はなかなかハードで、燃え尽きかけた。
燃え尽きかけただけで、完全に燃え尽きたわけではない。
もし、完全に燃え尽きていたら、どうなっていただろう。燃え尽きた自分を想像するとゾッとする。おそろしいおそろしい。


このままじゃヤバイよ?わかってる?限界って言葉知ってるよね?


燃え尽きるその前に自分にストップをかけた。ストップをかける自分がまだ生きていてよかった。


今は10月。少し落ち着いた。
燃え尽きかけていることに気づいた私がしたこと。それは仕事を減らすことだった。


このまま無理して仕事をすれば必ず身体を壊す。もしくは、疲労からとんでもない失敗をする。そう考えた私は仕事を減らすための段取り(調整)をを即実行した。私にしては珍しい。即断即決だった。すんなり仕事が減ったわけではないけれど、でも譲れない部分は絶対に譲らなかった。こんなにも強気な自分が表にでてくることに自分でも驚いた。静かだけれど、自分の意思を曲げない人だと周囲から認識されて、私は安堵した。あれこれと理由をつけて言いくるめられるのはもうイヤだった。相手を思うとおりに操作したがる口達者な人たちにはいい加減うんざりしていた。


周りに迷惑をかけるとか、仕事を減らすことで収入が減るとか、自分の評価が下がるとか、評価が下がり仕事自体がなくなるとか、まあいろいろ考えた。けれど、やはり自分の身体が壊れてしまうほうが問題だと思った。


身体を壊したら元も子もないというのは、当たり前のことだけれど、渦中、無我夢中のときは、妙にテンションが高かったり、気負っていたりで、無理していることに気づかないものだ。


仕事を減らしてよかった。ストレスが減った。収入も減ったけれど、もう、あのストレスフルな毎日には戻りたくない。


燃え尽きかけて思ったこと。
のんびりいこう。のんびりマイペースが私には合っている。無理はよくない。


もっと気楽に。やりたいことをやっていこう。


仕事・人間関係 「もう、限界! 」と思ったとき読む本

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会社、仕事、人間関係で「いい人」でいることがイヤになったとき読む本

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ものごとに動じない人の習慣術 (KAWADE夢新書)

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