意味を与えているのは自分

日々の出来事や人間関係とか、仕事で起きたこととか、そういうことに対して、ひとつひとつ意味を考えてしまうことがある。


例えば、朝、出勤途中で、黒猫に道路を横切られて、なんとなく先入観で「縁起が悪い」「何かよくないことが起こるかも」と思ってしまう自分がいた。そう思うのは、多分こどものころ聞かされたか、なにかの本で読んだせいだと思う。黒猫に横切られる=良くないこと、と意味づけているのは、まさしく自分で、自分で自分を嫌な気持ちにしていた。


で、まあその黒猫に横切られて、良くないことが起こったかというと、そんなことはなかった。


そして、別の朝、その道を通ると、またその黒猫に横切られた。それが、一週間のうち、3回か4回あった。もしかして、私がこの時間に通るのを、この黒猫は知ってる?黒猫の通勤時間帯とかぶってる?


こうしょっちゅう横切られると、縁起が悪いとかそういうことは、思わなくなった。むしろ、今日もあの黒猫が横切るかどうか、楽しみにすらなった。


事実に対して意味を与えているのは、自分。


それなら、できるだけポジティブな意味を与えたいものだ。


黒猫に横切られるのは、黒猫の通勤時間と私の通勤時間がかぶっているから、と。


疲れているときや体調不良のときは、なかなかポジティブになれないものだけれど、でも、そういうときは、無理に考えないようにしよう。


あとは、自分で事実に意味づけするのと同様、他の人もその人の視点で意味づけするものだから、これはどうしようもない。その人にはその人の視点、感覚、価値観があるから、よく言われるように「人は見たいように見るもの」。それを他者はどうこうできない。まあ、そういうことだ。


そんなわけで、今日はこのへんで。