読んでいる本『ヴィクトリア朝の英国人の日常生活 貴族から労働者階級まで』

読書が趣味なのだけれど、最近特に読んでいるのは、歴史関係、とりわけイギリスのヴィクトリア朝あたりの文化史に興味があって、関連の本をよく読んでいる。


そもそもイギリスに興味を持ち始めたのは、漫画「エマ」がきっかけだ。

エマ 10巻 (HARTA COMIX)

エマ 10巻 (HARTA COMIX)

エマ  全10巻 完結セット  (Beam comix)

エマ 全10巻 完結セット (Beam comix)


今、読んでいる本は、

ヴィクトリア朝英国人の日常生活 上:貴族から労働者階級まで

ヴィクトリア朝英国人の日常生活 上:貴族から労働者階級まで

ヴィクトリア朝英国人の日常生活 下:貴族から労働者階級まで

ヴィクトリア朝英国人の日常生活 下:貴族から労働者階級まで

これを読むと、ヴィクトリア朝時代の生活が細かくわかって、面白い。
朝起きて、どんなことをし、服は男性、女性、階級によって服装は異なるのだけれど、どんなものを着ていたか、当時の身だしなみについてや、運動(当時美容体操があったらしい)や仕事に家事、学校や余暇、そして当時の食事についても、わかりやすく書かれていて、興味深い。
当時は今より当然不便で、食事も現代のそれとは違う。家事の大変さも現代とは比べ物にならないことがこの本を読むとよくわかる。


読み始めてまず面白いと思ったのは、工場労働者など早朝出勤しなければならない人々のために、「目覚まし屋」という職業の人がいたということだ。「目覚まし屋」は依頼者の寝室の窓ガラスをこんこんと叩いて依頼者を起こしていたらしい。当時置き時計や懐中時計が高価で、労働者階級の人々には購入する余裕がなかったので、こういう「目覚まし屋」の需要があったと思われる。現代で早朝に新聞配達をするように、ヴィクトリア朝時代、担当の窓々を長い杖で窓ガラスを叩いてまわっていたのだろう。現代では、時計も安価で手に入るし、アラームの機能もたいていついている。電話をかけて起こしてくれる有料のモーニングコールのサービスが現代版「目覚まし屋」ということになるだろうか。


ヴィクトリア朝時代、コルセットはすべての階級の女性たちが着用していて、見た目のために着用しているだけではなく、健康のために女性にはコルセットが必要だと考えられていたようで、「保護」のためのコルセットという観点が私にとってとても新鮮に感じられた。とはいえ、一方でコルセットで背中と腹部を保護すると、そのコルセットで支えられた部分の筋肉はほとんど使われなくなるため、衰弱し、コルセットをはずすと、筋肉がない(弱い)ため、姿勢を保つのも難しく、すぐに疲れてしまうという皮肉な結果につながったそうだ。したがって、当時の女性はますますコルセットが手放せなくなるのだけれど、読んだ本によると、コルセットには内臓を温める(冷やさない)効果もあり、当時家の中でもかなり寒かったらしいので、防寒着としての役割も果たし、きつく締めすぎるコルセットは体に害だけれど、なによりもコルセットをつけない女性は自制心に欠けると周りから見られたそうで、「コルセットをつけない=だらしない」と世間からつまはじきにされる風潮に多くの女性は抗えず、また、コルセットをつけるのは当たり前だと思って日々コルセットを着用していたのではないだろうか。


第1章 起床 にはじまって第15章 寝室での営み まであるのだけれど、読んでいて本当に飽きない。『ヴィクトリア朝の英国人の日常生活 貴族から労働者階級まで』この本では労働者階級まで言及してあるところが面白く、当時どんなものを食べていたかについても詳しく書かれていて(地域差、時代差もある)、飢えや栄養不足に悩まされていたこともこの本を読んで知った。なんというか、本当に知らないことばかりで、漫画や映画、ドラマなどを見ただけでは、表層のことしか見ていないのだと痛感させられてしまう。知らないことを知る面白さ。私が本を読むのはそこだと思う。

ヴィクトリア朝英国人の日常生活 上:貴族から労働者階級まで

ヴィクトリア朝英国人の日常生活 上:貴族から労働者階級まで

ヴィクトリア朝英国人の日常生活 下:貴族から労働者階級まで

ヴィクトリア朝英国人の日常生活 下:貴族から労働者階級まで

丁寧に隅から隅まで読みたい本だ。




沼のような気分のまま、私は本屋へ駆けこんだ。

先日、自分では、どうにもならないことで凹んで、座りこんでしまった。
どうにもならないことなのだから、あきらめるしかないのだけれど、その時点ではとてもあきらめられるような気分ではなく、自分の無力さとか、どうにかしたいという苛立ちの沼に引きずりこまれて、身動きがとれないでいた。


数日経って、状況はほとんど変わらないのだけれど、気分的には落ち着きを取り戻しつつある。
どうして落ち着きを取り戻しつつあるのか。


ヒントは本屋。


凹んで、座りこんで、もう一歩も動けそうになかったのだけれど、こういうときこそ、好きなことをしたほうがいい。
なにが好きか。
わたしは本を読むのが好きだ。
本屋で本を見てまわるのが好きだ。
大型書店なら、何時間でもそこに居られる。
一度開店から閉店まで、大型書店で過ごせたら、さぞかし満足する1日になるだろう、と考えている。


沼のような気分のまま、私は本屋へ駆けこんだ。
そして衝動的に本を買った。
好きな作家の本を。

なにものにもこだわらない

なにものにもこだわらない

なにものにもこだわらない

なにものにもこだわらない


237ページの本だけれど、もう何度も繰り返し読んでいる。

本の内容は、抽象的なことが多いのだけれど、抽象的だからこそ、自分のことのように考えられるというのはある。
私のブログもそうだけれど、具体的に凹んだ原因、事柄は書かないけれど、誰だって凹むことはあるだろうし、また多くの人は、凹みから回復したい、なんとか立ち直りたいと思うのではないだろうか。抽象的な文から自分なりの解釈をして、自分なりの考えを得てほしいと思う。


凹んだ時、元気がない時、私は本屋へ行く。そして直感で、衝動で、読みたい本を買う。
今回は、たまたま好きな作家の新刊を手にしたのだけれど、やっぱり好きな作家の本は安心して読めるから好きだと妙に納得している。



過去、ものすごくこだわる自分がいた。
それは苦しいことだった。(今思うと)


こだわること。こだわりがあるということは、当時良いことだと思っていたけれど、今はちがう。
できるだけ、こだわらない方向に自分をもっていきたい。
そもそも、まったくどんなことにもこだわらないでいられるというのは、土台無理なことだろうし。


もっともっとこだわらない自分になりたいと、そう思う。
自由に。
もっと自由に考え、動けたら、と。


なにものにもこだわらない

なにものにもこだわらない

なにものにもこだわらない

なにものにもこだわらない

こだわること、こだわらないことについて考える参考になる本です。



大人になってから成長するということ

書類の整理をしていたら、2010年に作成した仕事の資料が出てきた。
資料を見て、しばらく言葉が出てこなくなった。


なんと拙(つたな)い資料だろう。


当時はこれでよいと思っていたのだ。(溜息)


今なら、今のわたしなら、こんな資料は作らない。
そう言えるのは、なさけない資料の作成後、およそ9年の経験があるから。


大人になっても成長することはできる。
目に見える成長ではなく、中身の成長。経験値の獲得。失敗も経験値になる。
そう考えている。


その成長は自分でするもの。
自分で自分を育てる。磨く。
「大人になってから成長する」というのは、そういうことだと思う。


成長、自分をアップデートする、改善する。好きな言葉だ。
明日からも少しでも成長していきたい。



逃げ場所と居場所と

最近、ふと逃げだしたいと思うことがある。
面倒な仕事とか、自分の手に負えないと思ってしまったこととか、ビルの窓を全開にして、放り投げてしまいたくなる。


もっとも、そんな衝動は、いっときの、妄想のような空想のようなもので終わる。
逃げ出したり、放り投げたところで、結局のところ、何の解決にもならなくて、逃げだしたあとの「自分の居場所」それはどこになるんだろ、と考えてしまう自分が、今いる場所の再確認(今はそんなに最悪な状態なの?という自問自答)をはじめてしまう。


自分の居場所を見つけられたら、それはしあわせなことだと思う。もしかしたら、その自分の居場所探しが人生ですることなのかもしれないし、あるいは、もしかしたら、そんな居場所なんて固執しなくてもいいのかもしれない。


逃げることで失う居場所。いや、自分でそこは自分の居場所じゃないと思うのであれば、他を探せばいいし、一か所にとどまっていなければならないという決まりはない。自分にとって、無理がなくて、息をしやすい場所が、「居場所」になるのだと思うけれど、そこを「居るべき場所」とまで、はっきり規定したくはない。あくまでも、ゆるく、縛られない居場所が、私の居場所であってほしくて、縛られはじめたとき、いろいろな面倒やストレスがかかりはじめた時点で、逃げ出したくなる、つまり今の状態はそういうことなのだと思う。


さてさて、2019年の最初の更新がこんな話題になってしまって「どうなの?」という気もしないでもないけれど、とりあえず、書いたので載せておく。


ふと、「自分の居場所」=帰属 ってこともあるよね、とも思ったけれど、うまくまとまらなかったので、それについてはまた今度。


2018年の終わりに思うこと

早いもので、あと少しで2018年も終わり。
いやはや、いろんなことがあった2018年でした。
1年通して、仕事ばかりしていたような。うん。してた。仕事ばかり。
一方で、思うように仕事ができなくて、ストレスたまりまくりで、一気に年を取った気が。
職場の人に「タフだね。休んだりしないね」みたいなことを言われましたが、体調が悪いときも、そりゃありました。が、休みたくなかった。根性で仕事したというか、まぁがんばりましたね。


ホント、周囲に頑張っている人が多くて、それを目にすると、自分も頑張らなきゃ、となるわけで、その1年がやっと終わったな、と。


継続は力なりで、失敗したとしても、あとあと良い経験となって自分にプラスになることがが多くて、失敗しないのが一番よいのだけれど、まぁ失敗したとしても、あまりシリアスにならずに、次に生かせばよいと考えればよいかと。


今年は本もたいして読めなくて、アウトプットもできなかったので、来年は読書とアウトプットに重点をおいていきたいかな。


平成最後の年越し。長く使っていたPCの画面が映らなくなって、焦りまくって、やっと新しいPCへの移行ができてホッとしながら、これを書いています。来年もよろしくお願いいたします。では、また。



自分で決めるということ。経験値を増やしていくということ。

ふと、いろんなことを自分で決めていることに気づく。
というか、大人なんだから、自分でいろいろなことを決めてやっていくのが当たり前なのに、私自身決めることが苦手で、しかもめんどくさいことがイヤで、できればなんでもしないで済ませられないかと、そういう性質(たち)だったのだけれど、最近は、やってみたら意外に簡単で、「なーんだ」ということが多数。例えば、ATMでの振り込みとか、今までやったことがなかった仕事とか。
もちろん、やったことがないので(特に新しい仕事)うまくいかないし、失敗もする。まさしく、今、壁にぶちあたっているところで、うまくいかないこともあるというのは、頭ではわかっていても、ここであきらめたくないという気持ちのほうが強くて、そうなると、負けず嫌いとか粘り強さとか、根性とか、図太さとか、鈍感さみたいなものが必要になってくるんだろうなと。面と向かって文句を言われたり、露骨(ろこつ)に嫌な顔をされても、スルーできる鈍感力は、やっぱり大事だったりする。


負けず嫌いで、鈍感で、まさしく私のことだと、そう思うわけで、仕事を続けていくうちに、さらにそれらが強くなって、ああ、でも優しさも忘れてはいけないな、と。
余裕は必要だなと。(しみじみ)


トライ、アンドエラー。
エラーはなかなか痛いけれど、でもまぁしょうがない。
あまり気にせず、またやるしかない。


そうして、経験値を増やして、増やして、1年後には今の状態を懐かしく思うくらいになりたい。もしかしたら、懐かしく思えるなんて10年後になるかもしれないけれど、まぁそれはそれでいいか。


トライ、アンドエラーで、満身創痍(まんしんそうい)。
もう少し明るい話題で書きたかったけれど、現状がそうだから、仕方ないかな。
今日はこのへんで。


鈍感力 (集英社文庫)

鈍感力 (集英社文庫)


↓ おすすめの本です。

考えすぎない (アルファポリス文庫)

考えすぎない (アルファポリス文庫)



こつこつ続ける人になりたい

まぁタイトルそのまま、なわけだけれど、こつこつ続けている人には、かなわないなぁ、こつこつ続ける人になりたいなぁと、そう思ったわけで。
ブログでも、仕事でも勉強でも、趣味のことでも、こつこつ続けている人の、エネルギーはすごいなぁと、そう思うわけで。
疲れたら休んで、ぼちぼちやっていけばいいというそんな感じのわたしは、甘いなぁと。


こつこつ続けられる人と、続けられない人の差は、一体なんなんだろう。
生まれ持った性格とか気質とか、これまで育ってきた環境とか影響とか、そのあたりが関係してくるんじゃないかと思っているのだけれど、こういったもの(性格とか気質とか環境とか影響とか)は、途中からでも、変えられるものなのか、変えられないものなのか、どちらなのだろう。私自身は「変えられない」と思う派で、そうなると、こつこつ続けられない人は、「一生続けられないままなの?!」と、頭をかかえてしまう。


単純に「こつこつ続けられる人になりたい」と、そう思っているだけなのだけれど、どうしたら、こつこつ続けられる人になれるか、手取り足取り教えてくれる人もいなくて、まぁそれに関する本を読んだこともあるけれど、本を読んだだけでは、変われるわけはなくて、結局のところ、こつこつ続けて、どうなりたいか、なんだろうなと思う。具体的なゴールがあったほうが、続けやすいというのは、確かにあるだろうな、と。例えば、試験とか。


いろいろなことが続かないでいるのだけれど、でもまぁそれを責めても仕方がないので、なにかひとつくらい、こつこつと続けていけたら、と思っている。気負いすぎたら疲れるしストレスになるから、本当にこつ、こつ、地味で、誰も見てくれないし、ほめてくれたりもないけれど、でも何かひとつのことを続けてみたいものだ。


とまぁ、こんな風に書いているということは、深読みすれば、実はこつこつやっている自分を見てほしい、ほめてほしいと思ってたりするのだなぁと、あらためて気づいたりするわけで、承認されることによる効能(例えば、やる気が起きるとか)は、もっと重要視していいんじゃないか、それなら自分で自分を承認する(自分で自分をほめる)のも有りなんじゃないかと、そう思ったところで、今日はこのへんで。