気軽に映画を見れないリアリストが抱える曖昧さとか矛盾とか

若い頃は行き当たりばったりで仕事していて、仕事をしながら、小説を書きながら、いつか作家になれればいいなと思っていたわけですが、いかんせん、現実的なのです、わたしという人は。空想するのが下手。作家になるには想像力や空想力が必要なのでは?


わたしはおそらくリアリストなのだと思います。現実的。空想したり、ロマンティックにひたるということがなかなかできないです。だからこそ、そういう部分がわかるように、感じとれるようになろうと思っているのですけれど。人の機微とか言葉にし難いもの、とかですね。


映画やドラマを見ていても、小説を読んでいても、ツッコミばかり入れてます。設定や登場人物、相関関係、ストーリーやセリフのひとつひとつ、テンポ、撮影場所、カメラワーク、光と影の使い方、音楽、効果音などなど、細かくチェックするので、本当に疲れます。なんとなく見るということができません。


いや、映画なんて気軽に適当に見ればいいでしょ?
そう言う人もいるかもしれませんが、気軽に見れないタチなのです。映画を作る人をリスペクトしているから。
自分にできないことをやっている人、尊敬します。私は映画を見ることはできても、作ることはできないから。


どこかでも書きましたが、自分の世界、独自の世界を作っている人が好きです。孤高の世界であれば、さらに尊敬の念が加わります。


映画の世界は、わたしにとって少し敷居が高いのかもしれません。必死にその世界を理解し、感じ取ろうとして、意味や答えを見つけようとする。数学ではないのだから、答えがないかもしれないし、意味も人それぞれ違うかもしれないのに。


明解な答えがあるものは楽です。楽ですが、世の中明解な答えがあるものばかりではない。曖昧な答えしかない場合もあるわけです。


リアリスト的でありながら、曖昧なものを抱えながら日々を過ごしている感じでしょうか。


矛盾は自分の中にいくつも眠っています。時折目を覚ましては、何か叫んでいます。でも、何を叫んでいるのか、わからないです。現状に対する不満や疲れを訴えているのかもしれません。一方でこれが現実なんだから、それを受け入れてできることからやっていくしかないよね、と言っている自分もいて、我ながらよくわからないです。矛盾してるというのはわかりますが。


この矛盾がなくなれば、楽になるのかな。
いつかは楽になる気もするけれど、また他の矛盾が生まれる気もします。解決策としては、矛盾を許せるくらいの大きな器の人になったらいいのかな。なれたらいいですね。大きな器(広い心)でつまらないことでグチったりメソメソしたりしないそんな人に。