失敗が見えない足枷(あしかせ)となるということ

だいぶ前の失敗が、今なお見えない足枷(あしかせ)となって、先に進むことを邪魔していることに気づいた。


一度の失敗であっても、周囲の目は自分が思う以上に厳しい評価をくだすのだなあと思うとともに、一度ついたこの厳しい評価を変えるにはどうしたらいいのだろう、もしかして、もう変えられないのかな、とも思ったりする。
私の場合、その失敗は自分の精神的な弱さが招いた失敗で、もしあの時、強く決して譲らない態度でいれば、事態は変わっていたかもしれない。まあ今更どうこう言ってもしょうがないのだけれど。


失敗やトラブルというものは、自分のウィークポイントが発端になることが多いように思う。
自分のウィークポイントをどうにかして克服したいと心の底から思う。とはいえ1日や2日で克服できるわけはないので、時間をかけて改善していくしかない。


あらためて、自分についている足枷(あしかせ)に気づいて、それでなおさら動けなくなりそうにもなるけれど、逆にどういう厳しい評価がつこうとも、自分がやれることを精一杯やるしかないとも思う。落ちこんでも状況は変わらない。いろいろなことが自分が思うとおりになると思うのは、ものすごい思い上がりで、思うとおりにならなくても、「まあそんなもんだよね」くらいの気持ちでいたほうが、精神的に楽でいられるかもしれない。


今更なのだけれど、自分のウィークポイントがこれから先も私自身を苦しめることになりそうで、頭を抱えている。ここはひとつ50mプールの水を総入れ替えするくらいのつもりで、自分のウィークポイントに向かいあう必要があるだろう。


そして、こうも思う。過去の失敗が足枷(あしかせ)となっているけれど、まだ動ける。動けるのだから、幸いだ。動けば、また新しい道が見つかるかもしれない。というか、見つけようと思う。評価は評価。今更どうしようもない。大事なのはこれからだ。失敗しない人はいない。誰でも大なり小なり失敗しているもの。そう思うと少しは気が楽になる。ガチガチに肩に力が入ってそれで失敗すること、うまくいかないこともあるわけで、まあ、いつも書いていることだけれど、あまりシリアスに考えすぎないのが一番よいのではないかと思う。


長くなってしまったので、今日はこのへんで。


好きな音楽を聞いて、好きな漫画を読んで、それから寝ることにしよう。



Kindleは便利だ。すっかり電子書籍派になってしまった話。

Kindleは便利だ。
Kindle Unlimitedを利用しはじめてから、読み放題のものをはじめ、Kindle Unlimitedではないものもダウンロードして読むようになった。
読みたいものが手軽に読めるようになり、どうなったかというと、書店に行かなくなった。もちろん、全然行かなくなったわけではないが、以前の半分も行くことはないと思う。
実物を見て買いたいとは思うけれど、忙しくてなかなか書店まで足を運べない。どうしても見てから買いたければ書店へ行くけれど、品揃えのよい書店は遠かったりで、結局Amazonで買うことも多い。


Kindle電子書籍がいいのは、かさばらないこと。
紙の本だとなくしたりすることもある。他の本の密林に埋もれたり。
既に十分すぎるほど、紙の本は自宅にあるので、これ以上増やしたくないという気持ちがとても強い。


紙の本が好きだと、以前書いていた気がするけれど、今ではすっかり電子書籍派だ。雑誌も電子書籍で読む。漫画も。

昔の漫画もどんどん電子化しているので、少しずつ集めていきたいとも思っている。好きだった作品をあらためて読むのは楽しい。新たな発見もあるかもしれない。そうなると、相当な数の漫画を集めることになるので、やはり電子書籍がいい。かさばらない。かつ、デバイスさえあればいつでもどこでも読める。


いやはや、我ながらこんなに電子書籍好きになるとは、変わったなーと我ながら思う。これを読んでいる皆さんはいかがですか?


覚えてもらうということ

一昨年、仕事で何度か会っただけの人とばったり会った。
すぐに先方が私に気づいた。
わたしも顔を見て「あっ・・・」と思ったけれど、名前を全然思い出せなかった。
先方はしっかり覚えていた。
嬉しそうな表情で
「久しぶりです。お元気ですか」と。
それから「毎日寒いですね」「今からお帰りですか」そんなやりとりをして、すぐに別れた。


なんというか、何度か会って、それから1年以上会っていなかったのに覚えてもらえていたというのは、うれしいことだと思った。これから先も接点はあるかもしれないし、ないかもしれない。おそらく「ない」ほうが、可能性としては強いのだけれど、もう「関係ない」と切ってしまうのではなく、また声をかけてもらえた、それがうれしかった。仕事をしていてよかったと思った。仕事をしていなかったら、その人と会うこともなかったのだから。私の仕事がどういう風に目に映っていたかはわからないけれど、不快ではなかったのだと思う。願わくば、良い印象で記憶されているとよいなと思う。少しでもプラスになっていればよいなと。


このブログも覚えてもらえれば、やはりうれしい。
忘れられてしまわないよう、時々は更新したい。



砂山が形になるとき

毎日の仕事が、やってもやっても終わらないのは積んでも積んでも決して高くならない砂山のようだ。
手を砂だらけにして、積んでも積んでも崩れてくる砂山を作って、疲労感だけが自分の中に積もっていく。積もり、沈みこんでいく。


沈みこんだところで、一度その手を離した。
胸が黒焦げになるように熱く苦しかった。
もう砂を積むのはイヤだと思った。


積めなくてもいい。
これまでやれるだけのことはやってきた。
だから、もういい。


いろんなものを我慢して、感情を殺して、そこまでしてしなければいけない仕事があるのだろうか。



仕事中でも自由に気持ちを、感情を吐露できる人が羨ましかった。
その一方で、どうして、そこまで感情を表に出し、周囲をやきもきさせるのだろうとも思った。


ブレない、安定感が仕事をするときの姿勢として必要だと思う。仕事中イライラとし声を荒げる人、不機嫌をあらわにする人は、正直ではあるけれど、自分のことしか考えていない、周りのことは考えていない、目に入っていないのだろうとも思った。誰でもそれぞれの仕事を抱え、大変で、その大変さはその人しかわからないものだったりするのに。



沈みこんだときも、淡々と。こつこつと仕事をするのがかっこいいと私は思っている。
憂鬱なこと、嫌なことも、とりあえず、そのままで、無理に解決しようとせず、とにかくやるべきことをやる。やっぱりやるしかない。



私は再び、砂山を作り始めた。
今度はもう無理はしない。
休めるときは休む。
無理だと思ったら、断る。
良い人を演じて、つぶれるのは自分だ。


さらさらと崩れやすい砂山だけれど、でも、今見ると、以前より積みあがっていることに気づいた。もう更地ではない。自分ではよくわかっていなかったけれど、これまで続けてきたことは無駄にはなっていないと。砂山が形になってきていると。砂は少しずつ積もり、固まり、少しずつ強くなってきている。


もう0ではない。


それがうれしい。


これからも、できることをやる、できることからやるしかないと思う。
淡々と、こつこつと。



炊飯器でおかゆ

胃が疲れているのか消化不良気味で、そういうときは思い切って絶食するのが良い。
水分はもちろん取る。温かい白湯など。


そして少し食べられるかな、と思ったら、おかゆ。
炊飯器に「おかゆモード」があったので、試しに使ってみた。
炊飯器の内釜にあるとおりに水をいれた。
「さすがおかゆ!こんなにも水をいれるんだな」と思いつつ、
あとはスイッチをいれて、炊飯器がお仕事。


できた!


ビバ!炊飯器!


あつあつのおかゆ。
ごましおがあったので、ごましおをぱらぱら。
塩味はあったほうがいい。
うーん、おいしい。


そして、書いておきたいのは、おかゆは思っていたよりもたくさんできるということ。
水を多めに入れたこともあり、米はその水を吸って期待以上に膨れてくれる。
食べても食べても、まだある感じ。


次におかゆを作るときは、作り過ぎないようにしよう。



2017年にやりたいこと

今週のお題「2017年にやりたいこと」


やりたいことは新しい仕事にチャレンジすること。
そのためには勉強も必要だし、勉強するためにも時間をうまく使うようにしたい。


去年は本当に仕事が忙しくて、本もあまり読めず、ブログも書けなかったのが心残り。
なので、今年は本をどんどん読んで、ブログも週に1か2更新したい。


読むことは刺激になるし、書くことで考えていること思っていることを確認できて、迷子にならずに済む。


迷子?
そう、迷子。たとえるなら、人生の迷子。


何がしたいか、何をやっているかわからず、やたらと右往左往している人を見ると「人生の迷子」になっているのかな、と思う。


とりあえず、自分の現在地、現在の状況がわかれば、それから先のことも考えられる。
目的地(ゴール)を改めて設定したり、そこまでの行き方を考えてみたり。


まぁ、無理に目的地(ゴール)を決めなくてもいいとも思うし、なんとなく進めるほうに進んでいく。それも有りだと思う。


自分ひとりの力ではどうにもならないことは多々あるわけだし、そもそも自分ひとりの力でなんとかなる、と思ってしまうのは驕りだ。


でもまぁ、まずは自分でやれることはやってみないとね。千里の道も一歩から!


新しい仕事にチャレンジ。
そのための勉強。
読書。
ブログを書く。


とりあえず、4つ。2017年にやりたいことをあげておくことにする。



年をとってると雇いたくないという意見

いくら経験があっても、年をとっていると雇いたくないという意見を聞いた。
「えっ、経験がある人のほうがいいでしょ?まったくの新人よりも即戦力になるし」と私は思うのだが、まぁその職場の平均年齢よりも相当上となると、やはり年上ということもあるし、扱いにくくなるのだそうだ。
そして、ある人いわく「年をとってると、だいたい頑固になってるし、ずうずうしい人が多いし、加えて自分の経験を鼻にかけていたり、プライドが高かったり、上司が自分より若いと素直に従わなかったりするし、とにかくね、扱いづらいんだよ」と。


まぁ、その人が言うのも一理あるなぁと思うわけで、そうなると年をとってからの再就職や転職はかなり厳しいということになる。


雇う側の理屈は絶対だ。
こればかりはどうしようもない。


komoko.hatenablog.com
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これまでいくつも転職関連の記事を書いているけれど、年齢の壁というのはそれまでさほど意識していなかった。資格があれば、経験があれば、なんとかなるんじゃないかとそう思っていた。でも、ある人の、経験があっても(資格があっても)、年をとっている人は扱いにくいから雇いたくないというその意見も、私の経験からしてわからなくもない。自分よりも年上の人が本来やるべき仕事を、なんだかんだとうまく言いくるめられて、押しつけられたことがある。「若い人はやっぱり仕事がはやいわよね」などと後から言われたけれど、「いや、そんなうまいこと言って、単純に自分がその仕事をしたくなかった。残業したくなかった。ただそれだけのことでしょ?」と言い返したかったが言い返せず悔しい思いをした。年をとっている人が皆そういうわけではないのだけれど、老獪という言葉も昔からあるわけだし、まぁ、一度仕事を押し付けられてものすごく大変だったので、以後術中にはまらないよう細心の注意をはらっている。


年をとっていても謙虚で尊敬できる生き方をしている人もいる。私もそうなりたい。融通がきく、臨機応変さがある人になりたいし、いくら忙しくても後輩に仕事を押し付けるようなそういう人にはなりたくない。


ある程度年をとってしまうと自分というもの(スタンス)が固まってしまって、自分でもなかなか変えられないというのはあるように思う。しかしながら、それが周りが迷惑を感じるような、眉間にシワを寄せてしまうような、そういう固まり方はしたくない。となると、自分をちょっと離れたところから客観視する時間を持ったほうが、自分の固まり様に気づけていいかもしれない。


うまくまとまらなかったけれど、長くなってしまったので、このへんで。