人間関係って難しい。

人間関係って難しいなと思いながら今日は帰ってきた。


今日久しぶりに会った人がいて、
その人とは以前なんだかんだ意見の食いちがいがあったのだけれど、
まぁそれはうやむやのまま、
ちょっと相手が私を苦手になったかも、という感じで終わってて、
まさか今日再会するとは私も思っていなかったので、
正直えっ!?って思ってた。
たぶん私自身もその人が苦手になっているのだと思う。


で、再会して、お互い天井の斜め上を見るような感じになってしまい、そのあと、その人の自分に話しかけるなというオーラがドバーっと放出されはじめて、私としては「ひゃー」という感じ。


一気に緊張状態。


出かける前から肩こりと頭痛でうにゃうにゃTwitterでつぶやいていたのだけれど、
それがもう最高潮にまで高まって、
頭が爆発するかと思った。


緊張のバリアをどうしてお互い張らなければならないのか。
考えたら悲しくなった。


私はこうしてブログを書いていて、
意見のちがい、視点のちがいなどはあって当たり前で、
いろんな意見があっていい、それはそれでOKと思っているけれど、
みんながみんなそういうわけではなく、
自分とは意見が違う人は警戒、もしくは遠ざけようとしたり、排除しようとする人もいるんだってこと再確認した。


排除し、つまり自分の眼中にないとされると、仕事をする場合、非常にやりづらいというのはある。
いろんな意見を出し合ったり、話をしながら進めていく必要があり、
どこの職場も同じだと思うが、
職場内の人間の意志の疎通がとれていなかったり、
非協力的だったり、協調性がなかったり、
何を考えているかわからない人間がいたりすると、
仕事は当然うまくまわらない。


「沈黙は金」
という言葉があるが、
仕事をしていくうえで、
「沈黙は金」だとは思わない。
どんどん説明するべきだと思うし、
どんどん報告し、考えを表に出すべきだと思う。
表に出すことによってしか他者は理解することができない。
黙っていてもわからない。わかってもらえない。そんなものだと思う。


表に出したものを理解されないこと、批判されること、否定されること、それもあるだろう。
あるけれど、それはそれでいい。そう思う。
仲良し同士で遊んでいるわけではない。
共感、同意だけではやっていけないのが仕事だったりする。
気にいらないから、考えが自分とは合わないからということで
バリアを張られてしまうと、
これは本当にやりにくい。


自分を守るためにバリアを張っているのだろうけれど、
そのバリアゆえに自分の立場が不利になることもあるのだということは案外知られていない。


バリアを張ること自体否定はしない。
自分を守ることも必要。
ただ、実はバリアを張らずにオープンにしている人のほうが
人からも好かれ、頼りにされたり、仕事もいっしょにしたいとそうなるものだと思う。バリアを張ったばかりに孤立してしまうことは十分ありえる。


私としては、前回のことは水に流し、また一からやっていきたい。そう思うのだけれど、先方としては、まだわだかまりがあるみたいだ。


なんていうのかな、その人の人生の重みというのだろうか、とても平凡とは言えない人生をその人が歩んできているというのを知って、ちょっと苦しいというのもある。苦労しすぎて、軸が傾いてしまったようにも見えるし、それでも必死で踏ん張って、この世界でどうにか生き残ろうとしている戦士のようにも見える。その人の抱える孤独、少し歪んだその殻のすき間から光が必死で外へ外へ出ようとしているのもわかるので、本当に本当にせつない。


自分の我が強くなり、それで周りとうまくいかなくなるというのはあるだろうなと思う。
頑固になり、譲れなくなる。
それはこわいな、と思う。


どうにかしてその人を変えたいとそうは思わない。
人を他者の力で変えることはまずできないことだと思う。
その人が変わりたいと思わなければ変わらない。
元々の自分に染み付いた考え方や考え方のクセ、傾向というのは
なかなか変わらないものだ。


これではいけない。
変えなくては!
と自分で気づいてはじめて変わるものだと思う。


その人がバリアを張っていることを察知し、
近寄ってこないでほしいというオーラを出しているのに
近づくことはできなかった。


もうそれはそれで仕方がないのかもしれない。
その人にはその人の領域を守る権利があって、
誰でも守りたい自分の領域、自分の世界というのはあるものだと思う。
それを尊重したいと思うし、
しかしながら、話をしないことには仕事はうまくいかないだろうし、
ああ、人間関係って難しいな、と思いつつ帰宅したのであった。