自分の価値観を持つということ

共感と対立

誰もが思うようなこと感じるようなことを書けば、いわゆる共感といった方向へ向かうのでしょうけれど、一般的ではないというか突出するような意見を表明した場合、それを否定する人とのぶつかり合いという方向、対立関係に進むこともあったりするのですよね。否定されること反対されることをよしとしない。つまり自分の意見や考え方が正しく優れていることを保持したいがゆえに、自分とはちがう意見、考え方を容認できないというのは、ままあることだと思います。

より上位の結論、答えを出せるかどうか

反対意見は反対意見で存在していいと思うわけ、そこはどうすり合わせることができるのか、あるいはすり合わせることはできないのか、融合あるいは昇華といった方向へ持っていけないか……。そうですね、異なる価値観を理解し、理解したうえで、より上位の結論、答えが出せればよいと思いますが、なかなか難しいのが現実だと思います。

わかりやすく短い言葉で説明できるスキルが大事

以前このブログでも書きましたが、仲良しこよしだけだったら、発展とか進歩はないんじゃないかなと思うのですね。異なる価値観が多数、それこそ人の数存在して、その中で自分はどんな価値観、どんな考え方をするかなんだと思います。それを他の人にわかってもらおうとした場合、どう表現するか、表現しきれるのか、なんだと思います。わかりやすく短い言葉で説明できるスキルというのは重要で、なかなかそのスキルを習得するのは難しかったりします。いたずらに長文を書くのがよいとは思っていません。長文は読み間違える確率も高くなりますし、最後まで読まれる確率も短文と比べると格段に低いです。

同レベルでないと理解しあうのは難しい

同レベルでないと理解しあうのは難しいというのはあるかと思います。なんていうのかな、本を例にあげると、あまりにも難しいレベルの高い本というのは読んでも理解できなかったりします。人それぞれ経験もちがえば価値観もちがいますし、どうしても理解できないということはあります。それはそれでしょうがないかなと思います。自分の考えを否定されただけで拒絶反応を起こす人もいますし……。他の人が自分と同じような考え方をするわけじゃないというのはありますね。
ただ、それでも自分の考え方なり感じたことをわかってほしいと思ったら、わかりやすく丁寧に表現するしかないのかもしれません。ええ、ブログを書くとき、やはりわかりやすさが大事ですし、どちらともとれる曖昧な表現で読み手を翻弄させるのは、そうですね、あまり好まれないかもしれません。ブロガーによっては「あえて曖昧な表現を使う」場合もあるかと思いますが、一般的に読者は素直に読める文章を歓迎するのではないかな、とそう思います。

自分の価値観を持つ

わたしはわりと大雑把なところあります。まぁいいんじゃない?的な。それはやはり年をとってきて、いろんな経験をするうちにそんな風になってきたのですよね。「細けぇことはいいんだよ」みたいな。そういうスタンスにだんだんなってきています。
異なる価値観を容認したうえで、自分の価値観をきちんと持つとある意味生きやすくなります。自分の価値観にしたがって行動すると後悔も少ないです。まぁ時には自分の価値観にしたがって行動して失敗してしまったということもあります。それでも失敗して終わりじゃなくて、失敗したからこそ学んだこと得たものというのはあったりします。


そうですね、自分の価値観を持つとひと言で言ってもピンとこなかったりもしますよね。まぁ堅苦しく考えないで、自分の考えを持つと言ってもいいと思います。自分で考えて、こんな風に思う考えるというのがあればいいんだと思います。自分に素直になるという感じでしょうか。自己欺瞞はやっぱり疲れます。無理が来ると思います。思うこと考えることは人それぞれちがうわけで、まぁ「みんなちがって、みんないい」んだと思います。



関連記事:ちがう考え方を許容するということ