眠り続けるものたち

書くことが思いつかない人のための文章教室 (幻冬舎新書)

書くことが思いつかない人のための文章教室 (幻冬舎新書)

しばらく書くことから離れていると、書くことがとてつもなく難しいことのように感じてしまう。「気負わず、気楽に書けばいい」とそう言う人もいるかもしれないが、不特定多数の人に読まれることを考えると、そう気楽に書きたい放題にはなれず、書こうとする自分とは別の自分が門番のようにすぐそこに立っていたりもする。表現したいという自分はまだここにいるけれど、表現を慎重に選ぶ自分もそこにいる。


前に書いたかもしれないが、自分とはちがう別の自分がチェック機構のように斜め上から自分を見ていて、その自分が書くことに制限をかけている。書くことだけでなく行動も、コントロールしようとしている。
コントロールすること、自制することは悪いことではない。けれど、あまりにも自制しすぎると、今度はつまらなくなってしまう。小さくまとまり、型に押し込め、きれいごとばかり書くような、そういう人になってしまいそうで、それは自分的に嫌だ。きれいごとばかり書き連ねても、実際にはきれいごとですまされないことを目の当たりにするし、煮え湯を飲まされることもある。歯ぎしりすることも。悔しいと思うことも多々ある。多々あるけれど、こういうことは私だけではないと思う。人それぞれ大なり小なりストレスはあって、自分だけ特別視するような、シリアスになるようなことではないと自分で思っている。だから、あえてわざわざ口にしないし、書いたりしない。たいていのことはsmall thing、小さなことだ。


とまあ、こういう考え方をしていると、書くことがなくなる。たいていのことは小さなことで、書くほどでもないことと見なしてしまう。ゆえに、ブログが止まる。忙しくてそもそも書く時間がないというのも理由に挙げられるけれど、それ以上に小さなこと、細かいことを切り捨ててしまっている自分がここに存在する。「書いて残すほどのことでもないな」そう判断して眠っている下書きたちは、おそらくこれからもこの記事の下で眠り続けるのだろう。


まあ、いつか眠り続けていたものたちを起こして、お祭り騒ぎをしてみたい気もする。そう、いつか、予定は未定だけれども。


書きあぐねている人のための小説入門 (中公文庫)

書きあぐねている人のための小説入門 (中公文庫)

小説作法

小説作法




忙しいからこそ、改善、時間短縮、段取りよく。無駄なことを見つけ減らしていく。

仕事のスピード・質が劇的に上がる すごいメモ。

仕事のスピード・質が劇的に上がる すごいメモ。

寝る前にその日あったことを書きとめておくようにしている。主に仕事のメモ。
よかったこととよくなかったこと両方。
よくなかったことは、どうしたら改善できるか、対策を考える。最近は、この改善という言葉が好き。改善にハマっていると言ってもいい。


仕事の流れを細かく書き出して、作業ごとの所要時間を書き加えていくテンプレートを作ったら、ものすごく便利で良い感じだ。


もちろん所要時間は大まかな目安で、そのとおりにはいかないのだけれど、この仕事は1時間以内で終わるはずなんだから、集中して1時間以内で終わらせる!と気合が入っていい。


終わった仕事はきちんとファイルして残しておく。修正が必要なところはすぐに修正して。あとから見返せるというのはとても大事なことだ。ファイルやメモを見返すことで同じ間違いはしないし、見返して改善できるところはどんどん改善していく。これが楽しくてしょうがない。


「忙しいからなんにもできない」というのが一番イヤだ。忙しいからこそ、改善、時間短縮、段取りよく。無駄なことを見つけ減らしていく。忙しくても、やっておきたいと思うことは、できるだけやっておきたい。日々はその積み重ねだと思う。


400のプロジェクトを同時に進める 佐藤オオキのスピード仕事術

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頭がいい人の仕事は何が違うのか?

頭がいい人の仕事は何が違うのか?

結果を出す人がやっている「ムダ」ゼロ仕事術

結果を出す人がやっている「ムダ」ゼロ仕事術




仕事における厳しさと優しさと。

仕事。 (集英社単行本)

仕事。 (集英社単行本)

仕事をしているとき、とても厳しい自分がいる。この厳しさは自分に対して向けられることがほとんどなのだけれど、時折、他の人に対しても厳しくなってしまう。


やる前にできない言い訳をしている人をみると甘えてるなあと思うし、「私が言ってもしょうがないですよ」とか「私からは何も言えません」と言って逃げる体勢に入る人を見ると本当に仕事をする気があるの?と思ってしまう。また、指示が適当で「これくらい言わなくてもわかるよね?」的な質問受け付けませんオーラを出している人も本当に困るし、めんどくさいことを誰かにさせようと策を練る人も嫌いだ。人を駒か何かのように扱う人も。


仕事に対するスタンスを書いていくとキリがないのだけれど、今日ここで書きたいのは「厳しいばかりだと人は遠ざかっていく」ということだ。仕事に対する情熱や意欲は皆同じくらいあるわけではない。寛容さや融通をきかせるところがないと、ぶつかりあい、時として眉間にシワを寄せながら対峙しお互いストレスをかかえることになる。仕事をしていると時に鷹揚に、時に気長に待たなければならないときがあるように思う。


私の場合、待つことが苦手で、動いていないと不安で、打てる手は打ち尽くしておきたいタイプで、そんな自分に欠けているもの、ついついぞんざいに疎かにしてしまうもの、それが寛容さとか優しさなのだと思う。
最近「待つ」ことの大切さを改めて思い知り、どんなにもどかしくても待てる人になろうとそう思うことがあった。


もちろん優しいばかりでは仕事は成立しないのだけれど、厳しさを振りかざす自分は一体どれほどの仕事ができているのだろう、と自分を鼻で笑いたくなる。偉そうなことは言えないのではないか。理想を言うのは簡単だ。言うのは簡単。やるは難しだ。


ただ、ここまで書いて思ったのは、仕事はチームワークで長期戦であることを考えると、それぞれが安定して仕事できる雰囲気、環境を常態にしているのがいいのではないか、と。優しいばかりで、なあなあの馴れ合いでもよくないし、厳しいばかりでギスギスキリキリもつらい。結論としては、バランスということになるだろうか。


厳しい人にはその人の基準や価値観があって、それを非難してもおそらく改まることはないように思う。性格的なものもあるし。ただ、その人自身が自分の厳しさを自覚して、「厳しいだけでは人はついてこないし、むしろ離れていく」ということがわかれば、変わるかもしれない。

待つ力 (扶桑社新書)

待つ力 (扶桑社新書)




才能がないとか向いていないとかそう思ったらあきらめるか、努力するか。

さあ、才能(じぶん)に目覚めよう―あなたの5つの強みを見出し、活かす

さあ、才能(じぶん)に目覚めよう―あなたの5つの強みを見出し、活かす


絵でも音楽でも文章でも仕事でもなんでもそうだけれど、「自分には才能がない」とか「この仕事に向いていないんじゃないか」とか、思ってしまうときはないだろうか。私はある。


好きだけど、それだけでは良しとはいかないのが、仕事だ。仕事は対価をもらう。結果を要求される。
「結果って言ったってうまく行くことばかりないですよ?」
そう言われそうだけれど、結果を残せないのに仕事したとは言えないし、結果を残してこそ仕事をしたと言えると思う。


前にも書いたけれど、仕事はうまくいかないから面白い。うまくいかなければうまくいかないほど、向かっていきたくなる。問題が起これば、それをどうにかしてやろうと思う。適当に惰性で仕事をするのが一番嫌だ。難しい問題であればあるほど、かきたてられる。特に根気がいるものは、試されている気がして、背筋が伸びる。持てる力を総動員して「やってみる」。


やってみたそれは0ではない。失敗もそれは良い経験になる。失敗はしてみないとわからないものだ。失敗による痛みもつらさも。失敗は人を強く、深くする。思慮深くすると言ってもいいと思う。


思慮深くすると言っても考えるだけで動かない人にはなりたくない。
才能がないとか向いていないとかウダウダ考える前に「やってみる」。才能がない分向いていない分、努力するしかないと思っている。不器用でも時間をかけてやるしかない。やれるだけのことをやってみて、それからだと思う。「どうせできない」とか「どうせやってもむだだ」という言葉が嫌いだ。


きれいなことばかり書いているかもしれないけれど、私はこういうことしか考えられないし、こういうこと書くことができない。我ながら真面目で堅苦しい人だと思うけれど、どうしようもない。才能や特別な能力がない分、努力するしかない。


ただ、努力する自分に酔いしれるようなそんな自分にはなりたくないと思っている。淡々と、日々コツコツと、続けること、投げないこと、あきらめないこと。良い結果が出なくても焦らないこと。自分に言い聞かせる意味でもここに書いて残しておく。


東大生が知っている! 努力を結果に結びつける17のルール

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気持ちを言葉でうまく表現できない人と他の人の気持ちを理解できない人と。

人それぞれ価値観がちがう、見方考え方がちがう、だからすれ違いや誤解は当然起こるものだし、ときに反発しあい収拾がつかなくなることもある。


私自身言葉にするのは苦手だ。


こんなにブログを書いているのにどうして?と思われるかもしれないけれど、書いても書いても自分が考えていること感じていることを言葉にしきれてはいないと思う。ここにあるのは、ふいに水槽からあふれた水だ。大慌てですくい集めた言葉たちに無理にタイトルをつけブログの1記事にしているにすぎない。


私は気持ちを、考えたことを言葉で表現したいと思っている。でも、さきほど書いたようにうまく書けず、また伝わったという感触も得られず、深い井戸の中で独り言を言っているようなそんな気がしているのも事実だ。


では、どうしてそんな独り言を書いているのか。
うまく書けないのなら、書かなければいいではないか。
答えはシンプルだ。


読んで欲しい人がいるから書いている。つたなくても書いたら読んでくれる人がいるから書いている。書き続けられているのだから、それでよしと思うべきだが、読み手の声が聞こえないもどかしさや書きながら感じる寂しさは、何年経っても消えそうにない。


そして不思議だけれど、こんなもどかしさや寂しさがあっても、書くのを止めようとは思わない。
100のうちの1でも伝われば、「わかる」と言ってもらえれば、書いてよかったと思う。



わかる人にはわかるし、わからない人にはわからないと思う。
それは最近特によく感じることだ。


理解しようとしないとか姿勢自体の差にもよるし、気持ちに鈍感な人もいる。他者の考え方に鈍感な人も。その人にはその人の考え方感じ方があって、それをコントロールすることはできない。私もコントロールされたくない。だからこそ時にぶつかりあうわけだけれど、たとえ理解されなくても、でも黙りこみ気持ちを考えを封じこめるようなことはしたくないと思っている。表現することを放棄したくない。そもそも自分以外の人が簡単に手に取るように気持ちや考えをわかってくれる、理解してくれる、と思ってしまうのはおそらく甘い考えで、期待しすぎなのだと思う。他者に期待して、それにこたえてもらえなかったとき、人はがっかりし、裏切られたと感じ、失望したり落胆したりする。人は勝手に期待し、感情を膨らませ、そしてしぼませるものだ。それはとても人間らしいことだけれど、感情をジェットコースター化させるのは、自分にとっても他の人にとってもよいことではないと思う。気持ち・感情に自分も周りもふりまわされ、疲れ、そのうち体調も悪化する。体調が悪化すれば、ますます気分も悪くなる。まわりを責め、自分を責め、泥沼になっていく。わかってもらえないときも、理解されないときもある。でもそれでジ・エンドではない。白黒はっきりつけなくてもいい。もしかしたら、自分の言葉が足らなくて理解してもらえなかったのかもしれないし、時が経てば、状況が変われば、わかってもらえるかもしれない。たとえわかってもらえなくても、私は私。それ以上でもそれ以下でもない。


これも最近思うことなのだが、厳しい言葉を辛辣な言葉を投げる人は、投げるだけの厳しい経験や思考がその人の中にあるのだと思う。まぁ、厳しい経験、つらい経験があるからと言って、それを他の人に押しつける、あるいは、「なんだよ、それくらいのことで、自分はもっと・・・」と言うのもどうかと思う。つらい経験に対しても優位性を示したいのかな、と思う。


長くなってきたのでそろそろまとめたいけれど、うまくまとまりそうにない。


気持ちを言葉でうまく表現できないからといって、表現することを放棄したくない。つたなくても言葉にすることを私は選ぶ。
他の人の気持ちを理解できないのは、私もそのひとりだと思う。
自分の気持ちでさえ時折わからなくなる。ましてや他の人の気持ちをわかるなんて簡単なことではない。勝手に他の人の気持ちを解釈してわかったつもりになるような、そんなことはしたくない。というか、勝手に解釈してわかった風になってはいけないのだと思う。また、気持ちを理解できないからと言ってその人を責めるのもまちがっているし、もしわかってほしいのなら、理解してほしいのなら、言葉を尽くして表現するしかないのかな、とも思う。黙っていては何も伝わらない。それは言えると思う。



今日はこのへんで。






老後が不安だから故郷に帰りたいと言う友人

少しぼかして(フェイクをいれて)書く。
友人は30代だけれど、今から老後が不安で仕方ないと言っていた。年金もあてにならないし、そもそもその友人は故郷を遠く離れていて、それが寂しくて仕方ないらしい。故郷には両親も姉妹もいて、とても仲がいいそうだ。家族の中で自分だけが離れて暮らしていて、それは仕事があるからなのだけれど、その仕事もいつまで続くかわからず、毎月の家賃や生活費で経済的に余裕もなく、貯金もほとんどないということも言っていた。故郷の家族とSkypeでよく話しているらしく、話すたびに帰りたいと思うのだそう。


仕事を辞めて故郷に帰る。その選択肢もある。友人の故郷は今住んでいるところよりずっと都会で、仕事も探せばあるとのこと。今は賃貸のワンルームマンションに住んでいるけれど実家に住めば家賃もかからないし、お姉さんと妹さんも近くに住んでいるので、いっしょにご飯を食べたり遊びに行ったり、姪っ子や甥っ子と遊んだりもできる。


今はまだ両親の世話や介護は必要ないけれど、いつか必要になるときがくるだろうし、もし家族が病気になったら近くにいてあげたいし、何より仕事を新たに見つけて再出発するなら、少しでも若い方がいいのではないか、と。それに家族と離れて暮らすのは、自分の老後や病気の時不安で、ご両親もお姉さんも妹さんもこんなに離れていては病気のときも助けてあげられない、いざという時はやっぱり家族だよ、と友人に言っているらしい。


今から老後を不安に思うよりは今できること、今頑張れることをやって、そうすることで不安は少しは和らぐのではないかと思うのだけれど、家族については自分の努力だけではいかんともし難いところがある。友人は家族といっしょに暮らしたいと思っている。
自立した大人なら、両親や兄弟姉妹と離れて暮らすことは当然と言われるかもしれないけれど、友人はこれから先もずっとひとりで生きていくことが不安でたまらなくて、精神的にかなりまいっているのは端から見てもよくわかる。よくわかるのだけれど、友人が欲しているのは故郷の家族なので、私としてはどうしようもない。故郷に帰ればあたたかい家族がいる。頼れる、支えてくれる家族がいる。その家族のもとへ帰るのを止めることはできない。ずっと寂しさや不安を抱えたまま今の暮らしを続けるより故郷に帰ったほうがいいかもしれない。


さっきも書いたけれど、新しい仕事で再出発するのなら、やはり少しでも若いほうがいい。今住んでいるところはたまたま縁あって住むことになった地だけれど、そこにずっと住み続けなればならないということはない。変わる自由がある。


友人は故郷に帰るかまだ決められないでいる。しかしながら何かきっかけがあれば、友人は故郷に帰るだろう。故郷に帰って、友人が笑顔になれるなら、楽しく暮らせるのならそれが最良の選択だと思う。「故郷を離れたからこそ故郷の良さがわかった」とは友人は言っていないけれど、離れて良さがあらためてわかるというのはあると思う。故郷でご両親もお姉さんも妹さんも健在で元気に暮らしている。そこに友人が戻る日は、そう遠くないかもしれない。



「仕事はできるけど、いっしょに仕事をしたくない人」について考えた

「あの人は仕事はできるんだけど、同じチームにはなりたくない(いっしょに仕事をしたくない)んだよね」という話を聞いて、どういうことだろう?と思っていたら、どうやら「その仕事ができる人」は経験もあるし、他の人が4〜5時間かかる仕事を2時間で終わらせるらしい。要するに仕事がはやい。


確かに黙々とものすごく真面目に仕事をしていて、その人が大きな失敗をしたというのを聞いたことがない。仕事ができるのもあって人をあてにしない(頼まない)人だなあというのは私も感じていた。


ただ、仕事はできるけど、チーム内でも情報交換をあまりしようとしないらしく、そういえば雑談をしているところをほとんど見ない。ひたすら静かに仕事をしているのがその人のイメージで、まあ雑談ばかりで仕事が遅いのは問題だけれど、情報交換的な話はやはり必要だと思う。


黙々と仕事する姿から思うのは、「とにかく自分の仕事は完璧に」という考えがその人にあるのかもしれないということ。「私はちゃんと仕事してますよ?」と。


確かに仕事はしている。時間単位で2人分の仕事ができる人かもしれない。でも、チーム単位で仕事をしているので、自分の仕事さえ完璧ならそれでいい、というわけではない。問題点や改善すべき点はどんどん共有すべきだし、それだけ仕事ができる人なら仕事が遅い人(うまくいっていない人)に良いアドバイスもできるはず。まあ、人にアドバイスする(教える)のは苦手という人かもしれないけれど。


同じチームの人にもなかなかオープンになれず、つい寡黙に仕事をしているのかもしれない。寡黙なので何を考えているかわからないし、自分の仕事以外のことに無関心のようにも見え、仕事を頼まない代わりに誰かに頼まれることも無言で拒んでいるような、そんな感じもする。だから「仕事はできるけど、いっしょに仕事をしたくない」となるのかな、と。


寡黙ということに関しては、過去、私自身余裕がなさすぎて、自分の仕事をこなすのにいっぱいいっぱいで、雑談や情報交換もできず黙々も仕事をしていた頃があったので、人のことは言えない。まあ今も余裕があるわけではないのだけれど、チームで仕事をしているという自覚はある。雑談も情報交換も以前よりしている。日々、より良い仕事をしたいという思いも強い。昨日よりは今日、今日よりは明日と、もっと良くしていきたい。明日はあれをやってみよう、うまくいっていないところはこんな風に変えよう、そんなことを考えるのは本当に楽しい。変えることを面倒くさがらない。とにかくやってみる、行動に移す。それをモットーにしたいと今思っている。


仕事ができるなら多少コミュニケーションに問題があってもいいのか、変に周りを掻き乱すおしゃべりトラブルメーカーよりはいいのではないか。私だったら必要があればこちらから話しかけるし、その仕事ができる人は話しかければ普通に答えてくれるし、寡黙なのは問題はないのではないか。「仕事はできるけど、いっしょに仕事をしたくない」と言っている人は「そんなに仕事ができるのだから、チームの一員としてもっと自分や他の人を手伝ってほしい」ということだろうか。それが期待できないから、いっしょに仕事をしたくないと言っているのかな、と。できる人は自分の仕事をサクサク終わらせ、ほとんど残業なしで帰っているらしい。それをうらやましく(嫉ましく?)思う気持ちの裏返しで、いっしょに仕事をしたくないと言っているのかもしれない。


長くなってしまったので、今日はこのへんで。