人それぞれ価値観がちがう、見方考え方がちがう、だからすれ違いや誤解は当然起こるものだし、ときに反発しあい収拾がつかなくなることもある。
私自身言葉にするのは苦手だ。
こんなにブログを書いているのにどうして?と思われるかもしれないけれど、書いても書いても自分が考えていること感じていることを言葉にしきれてはいないと思う。ここにあるのは、ふいに水槽からあふれた水だ。大慌てですくい集めた言葉たちに無理にタイトルをつけブログの1記事にしているにすぎない。
私は気持ちを、考えたことを言葉で表現したいと思っている。でも、さきほど書いたようにうまく書けず、また伝わったという感触も得られず、深い井戸の中で独り言を言っているようなそんな気がしているのも事実だ。
では、どうしてそんな独り言を書いているのか。
うまく書けないのなら、書かなければいいではないか。
答えはシンプルだ。
読んで欲しい人がいるから書いている。つたなくても書いたら読んでくれる人がいるから書いている。書き続けられているのだから、それでよしと思うべきだが、読み手の声が聞こえないもどかしさや書きながら感じる寂しさは、何年経っても消えそうにない。
そして不思議だけれど、こんなもどかしさや寂しさがあっても、書くのを止めようとは思わない。
100のうちの1でも伝われば、「わかる」と言ってもらえれば、書いてよかったと思う。
わかる人にはわかるし、わからない人にはわからないと思う。
それは最近特によく感じることだ。
理解しようとしないとか姿勢自体の差にもよるし、気持ちに鈍感な人もいる。他者の考え方に鈍感な人も。その人にはその人の考え方感じ方があって、それをコントロールすることはできない。私もコントロールされたくない。だからこそ時にぶつかりあうわけだけれど、たとえ理解されなくても、でも黙りこみ気持ちを考えを封じこめるようなことはしたくないと思っている。表現することを放棄したくない。そもそも自分以外の人が簡単に手に取るように気持ちや考えをわかってくれる、理解してくれる、と思ってしまうのはおそらく甘い考えで、期待しすぎなのだと思う。他者に期待して、それにこたえてもらえなかったとき、人はがっかりし、裏切られたと感じ、失望したり落胆したりする。人は勝手に期待し、感情を膨らませ、そしてしぼませるものだ。それはとても人間らしいことだけれど、感情をジェットコースター化させるのは、自分にとっても他の人にとってもよいことではないと思う。気持ち・感情に自分も周りもふりまわされ、疲れ、そのうち体調も悪化する。体調が悪化すれば、ますます気分も悪くなる。まわりを責め、自分を責め、泥沼になっていく。わかってもらえないときも、理解されないときもある。でもそれでジ・エンドではない。白黒はっきりつけなくてもいい。もしかしたら、自分の言葉が足らなくて理解してもらえなかったのかもしれないし、時が経てば、状況が変われば、わかってもらえるかもしれない。たとえわかってもらえなくても、私は私。それ以上でもそれ以下でもない。
これも最近思うことなのだが、厳しい言葉を辛辣な言葉を投げる人は、投げるだけの厳しい経験や思考がその人の中にあるのだと思う。まぁ、厳しい経験、つらい経験があるからと言って、それを他の人に押しつける、あるいは、「なんだよ、それくらいのことで、自分はもっと・・・」と言うのもどうかと思う。つらい経験に対しても優位性を示したいのかな、と思う。
長くなってきたのでそろそろまとめたいけれど、うまくまとまりそうにない。
気持ちを言葉でうまく表現できないからといって、表現することを放棄したくない。つたなくても言葉にすることを私は選ぶ。
他の人の気持ちを理解できないのは、私もそのひとりだと思う。
自分の気持ちでさえ時折わからなくなる。ましてや他の人の気持ちをわかるなんて簡単なことではない。勝手に他の人の気持ちを解釈してわかったつもりになるような、そんなことはしたくない。というか、勝手に解釈してわかった風になってはいけないのだと思う。また、気持ちを理解できないからと言ってその人を責めるのもまちがっているし、もしわかってほしいのなら、理解してほしいのなら、言葉を尽くして表現するしかないのかな、とも思う。黙っていては何も伝わらない。それは言えると思う。
今日はこのへんで。