苦しい日々

焦っているつもりはないのだけれど、やはり焦っているのかもしれない。
なにかとうまくいかないことが多い。少し高い踏み台に立っていたのに、その踏み台から引きずり降ろされるようなこともあって、精神的なダメージからまだ回復できていない。


精神的なダメージは、時間にまかせるしかないように思う。時間が薬。


うまくいかないことばかりで、折れそうになるけれど、今のところ、まだ折れてはいない。


ただ、焦って、苦しい。


「苦しい」ということに焦点をあてるから、余計に苦しいと思ってしまうのかもしれない。


明日は力を抜いて、気楽に行こう。1時間ごとに深呼吸を10回くらいしよう。



暗闇のなかで手さぐり

ふと昔よく聞いていた音楽を聞いて、昔とは違う感じ方をしたのだけれど、自分の感覚の変化に気づいた瞬間、自分を取り巻く暗闇をまざまざと思い知って、あらためて怖くなった。


少し前、人が亡くなる瞬間、偶然その場に居合わせることがあった。本当に偶然の出来事だったのだけれど、そのとき目にした光景が焼き付いて、今でも時折フラッシュバックしてしまう。


一寸先は闇だなぁと、その日以来繰り返し思うようになった。


なにかにすがりたい気持ち、なにかで紛らわせたいという気持ちが背中から迫ってくるのだけれど、その「なにか」がわからない。とりあえず、今は音楽を聞いているのだけれど、特効薬ではないようだ。漢方薬のように、じわじわ効いてきている気もしているけれど。


いや、この「じわじわ感」がもしかしたらよいのかもしれない。


以前からそうだったのだけれど、最近はさらに急速な変化を嫌うようになった。チャレンジも、まぁ悪いことではないと思う。でも、変化を受け入れられるような余裕がないとき、焦ってチャレンジすべきではないと思う。例えば、転職や引っ越しなど。焦って行動してよいことはない。それは経験的に痛感していることだ。


暗闇は怖い。けれど暗闇も、慣れれば、落ち着いてよいものなのかもしれない。静かであれば、もっとよい。静かすぎて寂しいのなら、好きな音楽を。


夜は空を見上げる。月を歯みがきの習慣のように探す。今日の月の形を、色を、見てホッとするのはよいものだ。


今、暗闇のなかで手さぐり状態で、心身ともにあちこち傷ついて、その痛みに辟易しているのだけれど、でもまぁ、今日も音楽が聴けて、月が見れたから、それでいいかな、と。




勉強について最近思うこと

今日は勉強について最近思うことを書いておきます。
なかなか覚えられないことは語呂合わせを使ってでも覚えようとしていますが、それでも忘れてしまうことのほうが多いので、繰り返し読むことと問題を解くことで記憶定着を図ろうとしています。資格試験であれば、過去問は早めに解いておいたほうがいいです。解く際は時間も計ります。


問題集を選ぶ際は、できるだけ解説が詳しいものを選ぶこと。最初は手も足も出せないような問題であれば、解説を見ながら解いていく、そのやり方もありです。


そして一度の勉強の時間を長くしすぎないこと。人それぞれ集中できる時間というのは違うので、自分の集中できる時間をだいたい把握しておいて、短い休憩をはさみながら、勉強したほうがよいように思います。例えば、30分勉強して10分休憩。また30分勉強して10分休憩、というように。人にもよりけりですが、休みの日にまとめて勉強するよりも毎日少しずつ勉強したほうが記憶の定着はよいように思います。


まちがえた問題には、チェックをつけておくようにし、何度も問題を解くようにしています。チェックを見て、前回まちがえた問題だとわかるのですが、それでもまた答えを間違えたり、答えに悩んだりします。そういうまちがえる問題、答えに悩む問題は自分のウィークポイント(弱点)であり、苦手な箇所なわけですから、よりいっそう意識して勉強するようにします。参考書を読んだり、ことば(用語)や意味を覚えたり。


覚えたことも忘れてしまうのは、仕方がないこと。忘れてしまうから、何度も復習する。繰り返し問題を解く。それが大事だと思います。
以前書いた記事です。
komoko.hatenablog.com


今読んでいる本です。

試験に「合格する人」と「落ちる人」の習慣 (アスカビジネス)

試験に「合格する人」と「落ちる人」の習慣 (アスカビジネス)





読んでいる本『ヴィクトリア朝の英国人の日常生活 貴族から労働者階級まで』

読書が趣味なのだけれど、最近特に読んでいるのは、歴史関係、とりわけイギリスのヴィクトリア朝あたりの文化史に興味があって、関連の本をよく読んでいる。


そもそもイギリスに興味を持ち始めたのは、漫画「エマ」がきっかけだ。

エマ 10巻 (HARTA COMIX)

エマ 10巻 (HARTA COMIX)

エマ  全10巻 完結セット  (Beam comix)

エマ 全10巻 完結セット (Beam comix)


今、読んでいる本は、

ヴィクトリア朝英国人の日常生活 上:貴族から労働者階級まで

ヴィクトリア朝英国人の日常生活 上:貴族から労働者階級まで

ヴィクトリア朝英国人の日常生活 下:貴族から労働者階級まで

ヴィクトリア朝英国人の日常生活 下:貴族から労働者階級まで

これを読むと、ヴィクトリア朝時代の生活が細かくわかって、面白い。
朝起きて、どんなことをし、服は男性、女性、階級によって服装は異なるのだけれど、どんなものを着ていたか、当時の身だしなみについてや、運動(当時美容体操があったらしい)や仕事に家事、学校や余暇、そして当時の食事についても、わかりやすく書かれていて、興味深い。
当時は今より当然不便で、食事も現代のそれとは違う。家事の大変さも現代とは比べ物にならないことがこの本を読むとよくわかる。


読み始めてまず面白いと思ったのは、工場労働者など早朝出勤しなければならない人々のために、「目覚まし屋」という職業の人がいたということだ。「目覚まし屋」は依頼者の寝室の窓ガラスをこんこんと叩いて依頼者を起こしていたらしい。当時置き時計や懐中時計が高価で、労働者階級の人々には購入する余裕がなかったので、こういう「目覚まし屋」の需要があったと思われる。現代で早朝に新聞配達をするように、ヴィクトリア朝時代、担当の窓々を長い杖で窓ガラスを叩いてまわっていたのだろう。現代では、時計も安価で手に入るし、アラームの機能もたいていついている。電話をかけて起こしてくれる有料のモーニングコールのサービスが現代版「目覚まし屋」ということになるだろうか。


ヴィクトリア朝時代、コルセットはすべての階級の女性たちが着用していて、見た目のために着用しているだけではなく、健康のために女性にはコルセットが必要だと考えられていたようで、「保護」のためのコルセットという観点が私にとってとても新鮮に感じられた。とはいえ、一方でコルセットで背中と腹部を保護すると、そのコルセットで支えられた部分の筋肉はほとんど使われなくなるため、衰弱し、コルセットをはずすと、筋肉がない(弱い)ため、姿勢を保つのも難しく、すぐに疲れてしまうという皮肉な結果につながったそうだ。したがって、当時の女性はますますコルセットが手放せなくなるのだけれど、読んだ本によると、コルセットには内臓を温める(冷やさない)効果もあり、当時家の中でもかなり寒かったらしいので、防寒着としての役割も果たし、きつく締めすぎるコルセットは体に害だけれど、なによりもコルセットをつけない女性は自制心に欠けると周りから見られたそうで、「コルセットをつけない=だらしない」と世間からつまはじきにされる風潮に多くの女性は抗えず、また、コルセットをつけるのは当たり前だと思って日々コルセットを着用していたのではないだろうか。


第1章 起床 にはじまって第15章 寝室での営み まであるのだけれど、読んでいて本当に飽きない。『ヴィクトリア朝の英国人の日常生活 貴族から労働者階級まで』この本では労働者階級まで言及してあるところが面白く、当時どんなものを食べていたかについても詳しく書かれていて(地域差、時代差もある)、飢えや栄養不足に悩まされていたこともこの本を読んで知った。なんというか、本当に知らないことばかりで、漫画や映画、ドラマなどを見ただけでは、表層のことしか見ていないのだと痛感させられてしまう。知らないことを知る面白さ。私が本を読むのはそこだと思う。

ヴィクトリア朝英国人の日常生活 上:貴族から労働者階級まで

ヴィクトリア朝英国人の日常生活 上:貴族から労働者階級まで

ヴィクトリア朝英国人の日常生活 下:貴族から労働者階級まで

ヴィクトリア朝英国人の日常生活 下:貴族から労働者階級まで

丁寧に隅から隅まで読みたい本だ。




沼のような気分のまま、私は本屋へ駆けこんだ。

先日、自分では、どうにもならないことで凹んで、座りこんでしまった。
どうにもならないことなのだから、あきらめるしかないのだけれど、その時点ではとてもあきらめられるような気分ではなく、自分の無力さとか、どうにかしたいという苛立ちの沼に引きずりこまれて、身動きがとれないでいた。


数日経って、状況はほとんど変わらないのだけれど、気分的には落ち着きを取り戻しつつある。
どうして落ち着きを取り戻しつつあるのか。


ヒントは本屋。


凹んで、座りこんで、もう一歩も動けそうになかったのだけれど、こういうときこそ、好きなことをしたほうがいい。
なにが好きか。
わたしは本を読むのが好きだ。
本屋で本を見てまわるのが好きだ。
大型書店なら、何時間でもそこに居られる。
一度開店から閉店まで、大型書店で過ごせたら、さぞかし満足する1日になるだろう、と考えている。


沼のような気分のまま、私は本屋へ駆けこんだ。
そして衝動的に本を買った。
好きな作家の本を。

なにものにもこだわらない

なにものにもこだわらない

なにものにもこだわらない

なにものにもこだわらない


237ページの本だけれど、もう何度も繰り返し読んでいる。

本の内容は、抽象的なことが多いのだけれど、抽象的だからこそ、自分のことのように考えられるというのはある。
私のブログもそうだけれど、具体的に凹んだ原因、事柄は書かないけれど、誰だって凹むことはあるだろうし、また多くの人は、凹みから回復したい、なんとか立ち直りたいと思うのではないだろうか。抽象的な文から自分なりの解釈をして、自分なりの考えを得てほしいと思う。


凹んだ時、元気がない時、私は本屋へ行く。そして直感で、衝動で、読みたい本を買う。
今回は、たまたま好きな作家の新刊を手にしたのだけれど、やっぱり好きな作家の本は安心して読めるから好きだと妙に納得している。



過去、ものすごくこだわる自分がいた。
それは苦しいことだった。(今思うと)


こだわること。こだわりがあるということは、当時良いことだと思っていたけれど、今はちがう。
できるだけ、こだわらない方向に自分をもっていきたい。
そもそも、まったくどんなことにもこだわらないでいられるというのは、土台無理なことだろうし。


もっともっとこだわらない自分になりたいと、そう思う。
自由に。
もっと自由に考え、動けたら、と。


なにものにもこだわらない

なにものにもこだわらない

なにものにもこだわらない

なにものにもこだわらない

こだわること、こだわらないことについて考える参考になる本です。



大人になってから成長するということ

書類の整理をしていたら、2010年に作成した仕事の資料が出てきた。
資料を見て、しばらく言葉が出てこなくなった。


なんと拙(つたな)い資料だろう。


当時はこれでよいと思っていたのだ。(溜息)


今なら、今のわたしなら、こんな資料は作らない。
そう言えるのは、なさけない資料の作成後、およそ9年の経験があるから。


大人になっても成長することはできる。
目に見える成長ではなく、中身の成長。経験値の獲得。失敗も経験値になる。
そう考えている。


その成長は自分でするもの。
自分で自分を育てる。磨く。
「大人になってから成長する」というのは、そういうことだと思う。


成長、自分をアップデートする、改善する。好きな言葉だ。
明日からも少しでも成長していきたい。



逃げ場所と居場所と

最近、ふと逃げだしたいと思うことがある。
面倒な仕事とか、自分の手に負えないと思ってしまったこととか、ビルの窓を全開にして、放り投げてしまいたくなる。


もっとも、そんな衝動は、いっときの、妄想のような空想のようなもので終わる。
逃げ出したり、放り投げたところで、結局のところ、何の解決にもならなくて、逃げだしたあとの「自分の居場所」それはどこになるんだろ、と考えてしまう自分が、今いる場所の再確認(今はそんなに最悪な状態なの?という自問自答)をはじめてしまう。


自分の居場所を見つけられたら、それはしあわせなことだと思う。もしかしたら、その自分の居場所探しが人生ですることなのかもしれないし、あるいは、もしかしたら、そんな居場所なんて固執しなくてもいいのかもしれない。


逃げることで失う居場所。いや、自分でそこは自分の居場所じゃないと思うのであれば、他を探せばいいし、一か所にとどまっていなければならないという決まりはない。自分にとって、無理がなくて、息をしやすい場所が、「居場所」になるのだと思うけれど、そこを「居るべき場所」とまで、はっきり規定したくはない。あくまでも、ゆるく、縛られない居場所が、私の居場所であってほしくて、縛られはじめたとき、いろいろな面倒やストレスがかかりはじめた時点で、逃げ出したくなる、つまり今の状態はそういうことなのだと思う。


さてさて、2019年の最初の更新がこんな話題になってしまって「どうなの?」という気もしないでもないけれど、とりあえず、書いたので載せておく。


ふと、「自分の居場所」=帰属 ってこともあるよね、とも思ったけれど、うまくまとまらなかったので、それについてはまた今度。