文章を読むこと。考えること。

■文章に触発され、考える。メモする。

クロワッサン(2008年3月10日号)『最近、面白い本読みましたか』より

文章は、その文章に触発されて どれだけいろいろなことを考えたか、に価値がある。
保坂和志(小説家、エッセイスト)

なるほど、と思い、早速メモした。
こういったわたし的に考えをめぐらせたくなる文章を目にした時、私は必ずその文章をメモする。
元々がメモ魔だということもある。私はメモし、その文章について感じたことを書く。
この感じたことを書き残しておくことは、ほぼ習慣化している。
メモしたものを自分の言葉でテキスト化する作業は、私にとって最高に楽しくて仕方がなかったりする。

■本を味わう、というのが好きだ。

私は本を速く読むのは好きではない。
味わいながら読むのが好きだ。
速く読めないこともないけれど、あえて、ゆっくりと味わいながら読む方を選ぶ。
味わう=楽しむ ということだ。
わたし的には味わいながら読む場合、メモをとりながら読むことが多い。
触発された(自分的に反応した)文章のページに付箋をつけたり、マーカーをひいたりする(図書館の本にはしないが)。
触発されるからには、それなりの理由があるとそう考える。
今の自分にとって、何か意味があるとそう考える。
その意味について考えるのが好きだ。
触発された文章は何度でも読むし、噛んで噛みしめて味わう。

■言葉という不自由なツール

実のところ、本を読んで、その本の内容を手ばなしで、すごい、すばらしいと褒めることはまずない。絶対にツッコミを入れたくなる。作者と私は別の人間だから、あたりまえかもしれない。
つまり、違うのが当たり前。
諸手をあげて受け入れらないのは、私には私の考え方があり、私の世界があるから。


「伝わる・揺さぶる!文章を書く」(山田ズーニー・著)の中にもあるのだが、
『言葉というのは不自由な道具』だと思う。


書き手が表現するものは、言葉という不自由なツールを介したものだ。
私は、ココで『ネットは、視覚オンリーゆえ、言葉や文章にはかなり「伝える際の壁的なもの」があり、勘違いや取り違え、齟齬といったリスクもあるわけだが、それでも意思の疎通は、ある程度図れると思う。』と書いたが、その思いは今も変わらない。
ある程度。そう、ある程度図れる、そう思う。
完璧な意思の疎通というのは無理だと思う。そもそもその完璧さを計る手段がないのではないかと思う。


書き手が表現したいモノと読み手が感じるモノは、微妙にずれる。全く同じではない。
ドライかもしれないが、ニュアンスだけでも伝われば、それでよしとすべきではないだろうか。


やはり、書き手は表現したいように表現するべきだと思うし、読み手の顔色をうかがって書くようでは、表現者としてどうかと思う。
もちろん、できるだけ誤解されないような文章を書くことが望ましいのではあろうけれど、どんなにわかりやすい文章でも簡潔な文章でも、読み手は誤解する。


あるいは、簡潔な文章だからこそ、読み手がいろいろな想像を働かせ、深読みし、誤解へつながったりということもありえたりする。


■意図したものと違う解釈だとしても

以前、私は詩を書いていた。
ある時、私の詩を読んだ人が私の意図するものとは全く違う解釈をしていて非常に驚いたことがある。


違う人間が読むのだから、違う解釈で全然かまわないわけだが、それにしてもその時は真逆だった。


簡単に書けば、その詩は、大切な人を失った哀しみの詩だったのだが、読んだ人にとっては、非常に勇気づけられたとのことだった。


涙が出てきた、というわけではなく、むしろ、勇気づけられたというのだから驚いた。


どうやら、詩を書いた私が大切な人を亡くし哀しみに暮れていて、それでもなんとか生きている。大切な人との思い出を胸に作者である私は一生懸命生きている、とそう思ったらしい。
そして、その読んだ人から「私の場合は、大切な人は死んだわけではなく、今も生きていて会おうと思えば会える。いつか彼に相応しい女性になったら、もしかしたら、また並んで歩けるかもしれない。頑張りたい」というようなコメントをいただいた。


まぁ、意図したものとは違う解釈であったとしても、触発され、そう思えたのなら、それでいいのかもしれない。


つまりは、冒頭で引用した

文章は、その文章に触発されて どれだけいろいろなことを考えたか、に価値がある。


ただ文章を読むだけで、自分の中に入ってこないのでは、意味がない。
文章を読み、どれだけ考えたかが大事なのだと思う。
そして考えたことがその人(読み手)にとってプラスとなるのなら、それは書き手として喜ばしいことなのではないだろうか。