選ぶということ。これでいいのだと思うこと


日々の暮らしの中でやりたいことが多くて、時折、いや、しばしばパニックなる。


忙しいという言葉は使いたくない。
忙しいの「忙」は心を亡くすと書くから。


そうmixiの日記に書いたら、(忙しいというのではなく)「やる事が詰まってる」 とそういう風に言うようにしているというコメントをもらった。
なるほどなぁと思う。以来、「忙しい」ではなく、「やる事が詰まってる」「やる事がたくさんある」と言うようにしている。


とはいえ、感覚的には「忙しい」というのは変わらないわけで、ふと空をみあげ、心の中をからっぽにして
ニュートラルなハイでもロウでもない状態をとりもどしたいと思う。




昔から、子どもの頃からあれもこれもそれもどれもとやってみる子だった。


大学時代でいえば、コンピュータの勉強をしつつも、音楽もやりたくて、演奏してステージに立つことが楽しくて、音楽ばかりやっていたように思う。一方で音楽をやりつつもバイトもめいいいっぱいかけもちでしたり、英語をめちゃくちゃ勉強してみたり、資格を取るのに夢中になったこともあった。


そして、あれもこれもそれもどれもやってみた結果、今の私がいるわけだけれど、結局どれも形として残っていないように思う。残ったのは学生時代にとったいくつもの資格くらいだろうか。しかしながら、いくつもの資格を有効活用しているような仕事を今しているかといえば、していないw


なんていうか、中途半端だな、と思う。
あれもこれもそれもどれも。


ひとつのことにひたすら打ちこむということができない。
いろんなことに興味がありすぎて、どれも面白くて、しかしながら、これといって極めるようなこともなく、そのうち熱が冷めていく。


あれもこれもそれもどれもやってみた結果、今では「ひとつのことに集中すること」そのことをこころ心がけている。(実際はなかなか集中できなかったりするのだけれどw)


人生は長いようで短い。いつ終わるかわからないのも人生。それなら、やりたいことをやっておく。いますぐ、なう!といった感じだろうか。


あれもこれもそれもどれも。
いろんなことに挑戦するのは楽しい。
楽しいからこそ、あえてやりたいことをひとつ選ぶ。
選んでとことんやってみる。


結局は自分の人生だから、自分で選んで自分がどう動くかだと思う。
人からどうこう言われ、すすめられ、アドバイスされたとしても、結局選ぶのは自分だと思う。どうするかは自分。


自分がどうしたいのか、そこらへんをはっきりさせておかないと、いつまでもふらふらしたまま時間だけが過ぎていくように思う。


あれもこれもそれもどれも。
やってみるのはいいことだ。
いいことだけれど、あれこれやったところで、どれも実になっていないことになりはしないか。


いさぎよくこれというものに決められないということもあるだろうが、それならそれでもかまわないと思う。
まだまだ試行錯誤の時期なんだと思う。
そのうち淘汰されていくものだと思う。


あるいは、一生試行錯誤するのも有りだと思う。
そしてその結果がこれだと、自分自身が受け入れられればそれでいいと思う。


選ぶことは難しい。
選んだあとだって迷うものだ。


選ぶのは誰でもない自分。
自分で選ぶこと。
誰かに相談したりしたとしても、最終的に選び、行動するのは自分。
誰かのせいになどしたくない。


自分で選らんだ。
だからこれでいいのだ。
そう思う。


自分で選んだことだから後悔ということは本来ないはずで、すべてはそれでよかったのだと思うようにしている。
なるべくしてなった、すべては自分が選んだ結果がそこにあるのだと。