塊と核と―自分の視点を確立していくことに関する一考察

最近もある本を読んで、目からウロコがとれた。ああ、そうだったのか、と。
そういうことであるなら、納得する。今までそんな風に思ったことはなかった。そうか、そう考えればいいのか、と。それは、ある種独特の快感があったりする。


さまざまな視点があって、その視点を知る。
自分の視点につい固執しがちで、思いこみや先入観で固まってしまっている場合、なかなか他の見方ができなかったりする。考え方を変えれば、またちがった方向に向かえるかもしれないのに、自分の考えに固執してしまって軌道修正できないでいる、そういうこともままあったりする。


ふと思った。
自分の考え方というのは本来はさらさらだった砂糖が、空気に触れ湿気を吸い、次第に固まり、なかなか崩れない大きな塊のようなものなのではないか。


塊を保持し、その塊の中心にあるは核があるのだろうと思う。
が、時にその塊を崩されるような、そんな視点、価値観、考え方に遭遇することとも長い人生の中であったりする。今回、私が本を読み、ああ、そうだったのかと目からうろこがとれたように。そして、またあらたな自分の核が生まれたようにも思う。


本との出会いは偶然だけれど、ただ偶然ですませられるものではないのかもしれない。
いかにその本の中身を吸収できるか、読み取ることができるか、要するにそこだと思う。


読み取ったものが自分の核となるようなそういう出会いというのは、おそらくは稀だろう。しかしないわけではない。つまり0ではない。


人との出会いもそうだと思うが、なかなか出会いがないという人は多い。もしかしたら、出会っているのに気づいていないという場合もあるのではないか。ここでは新しい視点、考え方について言及するが、そういったものに出会っていたとしても気づいていないことのほうが多いのではないだろうか。
すなわち、気づいていない=見えていないのではないだろうか。人は自分が見えるものしか見えると認識しない。見えていないものは見えていない。気づかないものは気づかない。ただそこにあるだけで、それ以上の意味を持たない。あるいは自分が見たいものだけを見ているとも言える。例えば、車が好きな人であれば、自然と車関係のもの、CMや広告、実際に走っている車が目にとまるであろうし、ゲームが好きであれば、おのずとゲームに関連したことが目につき、情報にも敏感になる。つまりは自分の興味関心のあることは容易に見えるものだが、興味関心のないことはそこにあったとしても気がつかない。あるいは気にとめたとしてもすぐに忘れてしまう。


自分の塊を崩すほどの視点、考え方に出会ったとき、あるいは新たな自分の核となるようなそんな視点、考え方に出会えたとき、その出会いをうれしく思う。またそういう出会いを求めて本を読んでいると言ってもよい。


塊を塊のまま保持していく。それでもよいと思う。
時にそれが崩されること、それも面白いと思う。
崩されたとしても、自分自身を失ったわけではなく、ただ今までの思いこみから解放され、一旦自由になったのだとそのように解釈することもできる。


一旦自由になりさらさらの砂糖の状態になって、それはそれでいいように思う。
自由自在という言葉はいいなと思う。
あるいは臨機応変。
頑(かたく)なになるのではなく、他の視点も知り、時に塊を崩し、新たな核を得、自分の視点を確立していくようなそんなスタンスも有りではないかと思う。