ブログ。「ストック」と「個」としての活動。そして「書いた人間より未来まで残る可能性」。

「なぜ今、ブログなのか」
http://jkondo.hatenablog.com/entry/2011/11/19/114109

id:jkondo氏の記事を読んでインスパイアされたので、私も少しブログについて書いてみようかな、と。
フローとストックについては、うんうんと頷ける部分。そして、「個」としての活動。既に私ははてなダイアリーでストックと「個」としての活動をしているわけで、「はてなダイアリ=ブログ」という感覚で使っている。はてなブログを使う際は、ブログの方向性を決めたうえで、もっと「個」の活動を充実させる場にしたいな、と思ったり。

「ブログを『自己表現の場』として使えるなぁ」と思ったのは、もうずっと昔のような気がする。当時はもっと小説や詩を書いていて、その発表の場としてブログを使っていた。
あるとき、読者で普段からもメール等のやりとりとしている方から「ブログに書いておしまいにするのはもったいない、賞とかに応募すればいいのに」と言われた。ちょうどラノベが隆盛し始めた頃だ。今よりもレーベルは少なく、募集しているレーベルには片っ端から応募した記憶がある。最後まで書ききる快感に目覚めたのも応募し始めてからだった。大量の文章を書き、書く訓練をしていた時期だったのかもしれない。

ライトノベルの賞への応募熱が冷めて、それから私のTwitter熱がはじまったように思う。ゆるいつながりは私に向いている、そう思った。忙しいときはツイートしていない。気が向いたときにツイートしている。それが本当に楽でいい。
ただ、ストックという役割はTwitterにはないように思う。フロー。流れていくもの。その時その時楽しむもの、という感覚で使っている。

一方、ストックとしてのブログ。いつも私が書いているように「考えたことを残しておくための場所」としてのブログを使い、愛おしく思っている。よくまぁ毎日のように書いているなぁと、我ながら感心する。

書いても書いても書くことはなくならない。むしろ、もっと書きたくなる。書くことが苦ではなくなる。
面白おかしくウケを狙って書くことはしないし、書けることを書くだけ。それが続く理由かもしれない。

「私個人の考えたこと、今思っていること」それを書いて、ここに残していきたい。有名人でも著名人でもなく、どこかの会社に属しているわけでもないけれど、だからこそ自由に発言できるというのはある。有名人、著名人の言うこと書くことそのどれもが優れているというわけでもなく、むしろ、一般の人が考えたこと、思っていることにこそ心を打たれることが多いような気がする。

「個」の声をもっと!
それは昔から思っている。
自由に声をあげていい。発信していい。

「ネット。誰もが発信し続けられる世界であってほしい。
http://d.hatena.ne.jp/komoko-i/20090717/p1

「もっと声をあげていい。」
http://d.hatena.ne.jp/komoko-i/20080313/p1

自分の声をあげる場、残す場としてのブログ。
続ければ続けるほど愛着がわくもの。
人間だから不安になるときもあれば、凹むときもある。
不安になってもいいと思う。凹むときがあっても。

ブログという活動の場を閉じてしまうのは一瞬だ。
一瞬で閉じる。いや、一瞬で閉じることができると言ったほうがいいかもしれない。
人の命もそうかもしれない。
命も一瞬で。
ただし命の場合、自分の意思とは関係なく閉じてしまうところがブログとはちがうだろう。
「まだまだ生きたい」「まだまだ生きるつもり」そう思っていてもそうならない場合もある。
ただ、この活動した場―ブログ―は、誰かが閉じない限り、残り続ける。
ネット上に存在するかぎり、細々とでも誰かに読まれることになるだろう。

書いた文章は、少しずつ集まって、きっとなにものかを築くだろう。幸運ならば、自分以外の人に、自分の一部が伝わるかもしれない。そして、それらはいつまでも残る。書いた人間より未来まで残る可能性を持っている。それだけで、充分ではないか。
小説家という職業 (集英社新書)森博嗣

書いた人間より未来まで残る可能性」それはブログも同じだと思う。自分が書いたものが読まれ、誰かのプラスになるのなら、あるいは誰かの思考に一石を投じることになるのなら、それは書き手として、しあわせなことだと思う。

小説家に興味がある方は読まれてみるといいかもしれません。

小説家という職業 (集英社新書)

小説家という職業 (集英社新書)