「これといって個性がない」と言われ涙が出そうになったことを今も思い出す。

「個性、魅力ってなんだろう」と思うとともに、そのよくわかっていないものをほしがる自分がココニイル。


心に残る音楽、惹きつけられ何度でも聴きたくなる音楽がある。


私のiTunesには再生回数が1000回を遥か超えている曲がある。好きだから何度もリピートして聞くわけだが、どうしてそんなにも惹きつけられるのだろう。


魅力があるからだろうか。


では魅力とは一体なんだろう。


ここのところ個性や魅力と言う言葉が脳内を闊歩して自分では止められないでいる。


私の個性ってなんだろう。
私が書くものに魅力はあるのだろうか。


自分では自分には惹きつけるものがあるとは思えなくて、目を閉じうなだれてしまうほど悔しく思う。
理想はあるけれど、その理想は遥か遠く太平洋上空に茫洋と浮かんで漂う雲のようだ。


現実と理想のギャップに悩む人というのは意外と多いのかもしれない。私もそのひとりだ。


ただ私はこうして発信する場―ブログ―を持ち、はっきり素直に書く。

ほしいものは個性。魅力。


先月、私komokoが書くものは「これといって個性がない」と言われ涙が出そうになったことを今も思い出す。
個性がない。没個性。つまりウリとなるものがない。言い換えれば、惹きつけるものがないということだろう。より多くの人を惹きつける魅力が私の書くものにはない。つまりはそういうことだろう。それは自分でもわかっていたけれど、自分以外の人から指摘されると砂を噛んだ気分になる。
自己満足で書いているだけ。だからそれまで。評価されるようなものではない。まぁ書かないより書いたほうがいいけれど、と言ったところかもしれない。ブロガーが書くのをやめてしまうのは、書いてもしょうがないと思ったときかもしれない。


個性がないのをウリにするというのも手もあるけれど、個性がないものが果たして長期に渡って通用するものだろうか。


私が書くものはこれといって個性がないとは言え、こうして書いているのだから自然とわずかながら個性や特徴といったものは出てくる。
無味無臭の人はいない。
なんらかの味、においはあるもの。
その好き嫌いは人によって分かれるだろう。


多くの人に好かれる味、においというのは確かにあるだろう。
それを分析して目指すことは可能。
ただ分析して目指したところで本来の持ち味が殺されてしまう場合もあるのではないだろうか。


自分の見せ方、表現が巧い人を見ると心底羨ましく思う。
羨ましく思うが、彼らを真似たところで猿真似で滑稽なだけだとわかっている。拙くても自分の言葉で書かねば!拙い自分を出すのも本当は恥ずかしいのだけれど。


ほしいのは個性。魅力。


「十分個性的ですよ、魅力あるじゃないですか」
そう言う人もいるかもしれない。それはそれで嬉しいけれど、自分はもっと個性的でありたい。自分が納得する個性を確立したい。人は変われる。なりたい自分になれる。その思いが自分を支えている。


現状でいいとは決して思っていない。
過去よりも見るのは未来。
振り返っても過去は変わらない。
失敗や挫折、傷ひとつ痛みひとつない人生を送っている人はいない。私だってそうだ。

「これといって個性がない」と言われ涙が出そうになったことを今も思い出す。

このことがあったから前に進めるというのはある。
目標はできればいくつか持っておいたほうがいい。
ひとつだけに絞る必要はないと思っている。
私はひとつひとつゆっくり達成していこうと思う。
自分のペースで。