働くとか幸福とか価値とか貢献とか、それらについて文章にすることは、なかなか難しい。

読んだ本『人生は苦である、でも死んではいけない』(岸見一郎)


この本の中に『働くこと自体が目的ではなく、幸福であるために働くのである』とあって、
まさにそうだなと思って、そのことについては、またあらためて書きたいと昨日書いたのだけれど、
このブログで「あらためて書きたい」と書いて実際に書いた試しがない(おそらく)ので、そろそろ本当に書いてみようと思う。(まじで?)


『働くこと自体が目的ではなく、幸福であるために働くのである』という一文。
久しぶりに「そうだ」と納得する一文だ。



私の場合、仕事をしている間、かなり「気」を張っている。
神経を使っているといってもいい。
それが年末年始、仕事をしていなくて、「気」が抜けてしまうと、
次は「不安」が押し寄せてきて、どうしようもなくなってしまう自分がいる。
この「不安」はどういう「不安」なのか表現するのは難しい。


休みの時くらいのんびりしたらいいのだけれど、
のんびりしていいのか躊躇する自分がいて、
こう書くとワーカホリックなのかもしれないけれど、
仕事をしているときのほうが、安心する。
もちろんストレスも溜まるのだけれど、
それでも、仕事がなかった頃を思えば、
不採用が続いた頃を思えば、
多少のストレスは仕方がない。


上記一文にあったように
『幸福であるために働く』
自分のためだけでなく、家族の、周りの、仕事に関わる人すべてのために、できることをやる。
こんな自分でもできることがある。
それがうれしい。
だから働き続けられるのかもしれない。


逆に働いていなければ、幸福ではないのか、という問いも生まれるけれど、
これについては、働いていなくても、幸せだとその人がそう思えばそうであるし、
要は、その人の考え方、感じ方次第なのではないかと。


人の幸不幸は、他者から見て本当のところはわからない。
「幸せ」そうに見えるだけで、実際のところは、わからない。
勝手に「幸せ」だと、他者が決めつけているだけのこともある。
不幸な部分は表には見せたがらない、隠したがるものだ。ゆえに「不幸な部分は見えない」から幸せそうに見えるだけかもしれない。


話を戻して、
働くことで、自分ができることを確認できるというのはあると思う。
貢献感が安心感を引き寄せるのかもしれない。


この本の中で

働いている人もそうでない人も、生きているという点では同じであり、生きているだけで他者に貢献できるーそう感じられる時、誰もが自分に価値があると感じることができるだろう。
人生は苦である、でも死んではいけない (講談社現代新書)』より

とある。
自分に価値があると感じること、これは生きる上で必要なことで、でもまぁ、価値を決める基準や価値観なんて人それぞれ違うし、価値があろうとなかろうと、生きてる。それでいいと思う。他者への貢献ができればそれにこしたことはないけれど、でもそれがすべてじゃないと思うのだけれど、貢献とは一体何なのだろう。貢献は、誰かに強制されたり、自分からアピールするようなものでもないし、なかなか扱いにくい言葉だったりする。


働くとか幸福とか価値とか貢献とか、それらについて文章にすることは、なかなか難しい。
ヘビィで首から背中からガチガチに重く硬く締めつけられるようだ。
このブログで「あらためて書きたい」と書いて実際に書いた試しがない、その通例を打ち砕きたくて書いてみたけれど、
自分が石化するとは思いもよらなかった。精神的消耗も相当なもので、こういう場合、すぐに他のことをしたほうがいい。
考えること書くことは楽しい。でも、それだけじゃなく副作用もあることを思い出したところだ。