助けてくれる人があらわれて思ったこと

仕事で「ああ、もうどうしよう」ということがあったのだけれど、そういうとき、絶妙なタイミングで助けてくれる人があらわて、本当に救われた。涙がでるくらいありがたくて、何度もお礼を言った。


ひとりで何でもやりたいタイプな私だけれど、どうしようもなく困ったときは助けを呼んで、自滅しないようにしたほうがいいと思った。ひとりでできることには限界がある。もちろんがんばるけれど、がんばってもどうしようもないこと(仕事が終わらない、問題が解決しない、など)はあるものだ。


今回助けられて思ったのは、私も助けられる人になろうということ。そのためには、まずは自分の仕事を手際よく終わらせなくてはいけないし、技術的にも「できること」を増やさなければいけない。仕事の幅ももっと広げる必要もあるだろう。


まだまだ未熟。まだまだ改善の余地が数え切れないほどあって、だから長い時間を走り続けるつもりで、時に休憩しつつ、リフレッシュしつつ、コツコツと・・・というのがよいかもしれない。


コツコツと続けられるのは自分の長所でもあるので、これからもブレずに続けていこう。
私も助けられる人に。いざという時、必要とされる人になりたい。




本当に苦しいときは弱音を吐いていい。

久しぶりのブログ更新だ。
書けなかった理由は「忙しかったから」というのと「時間があれば寝ていた」というのが挙げられる。


忙しいのにどうして寝る時間はあるのか。


私は忙しいときこそ努めて「寝る」べきだと思っている。


忙しいと疲れるしストレスも溜まる。疲れたら寝るのが一番だと思うし、寝ることはストレス解消になる。実際、毎日眠くて眠くてしょうがなくて、時間があれば寝られるだけ寝ている。特に今月はかなり大きな失敗をしてしまって、その失敗を思い出しては逃避的に眠っていた。


失敗したのは自分がいたらなかったからだ。情けなくて泣けてくるし、でも、失敗は今更どうしようもなくて、消しゴムで消すようには失敗の記憶は消えてくれない。いっそ修正テープを貼って、そこだけ書きなおしたいくらいだ。まあ、そんなことはできないのだけれど。でもまあ、ポジティブに考えると、ここまでの失敗はなかなかできないものだし、今回のことで同じ失敗はもうしないだろうから、良い経験になったとも言える。


失敗してつらかったのは、一言で言うと孤立無援感。
失敗について、誰かに話をすれば慰めてくれるかもしれないけれど、でも誰に話をしていいかわからない。どうしてそういう失敗をしたのか、それは自分が一番わかっているし、誰かに話したとしても、「そういうこともあるよ」と言われてしまいそうで、でも「そういうこともあるよ」で済ませてしまいたくない自分がいる。失敗によって現れた壁も、最終的には自分でどうにかするしかないのだけれど、どうしたらいいのかわからないでいる。そんなすぐには好転しそうにない自分の状況は一言でいうと「苦しい」。


苦しいから「睡眠」に走る。やることはいろいろあるのに「寝る」。そんな自分に苛立つ自分がいて、正直いってどうしたらいいかわからない。


タイトルに書いたけれど、「本当に苦しいときは弱音を吐いていい」と、自分に言い聞かせたい。


弱音を吐いたらカッコ悪いとかバカにされるとか、そういう風に思ってしまいがちだけれど、いろんなものをためこみすぎて、限界を超えて壊れてしまうよりは、弱音に吐いて少しでも楽になったほうがいい。人は完璧ではなく、誰でも弱い部分を持っているのだから、弱音を吐くことは恥ずかしいことではない。


気持ちを整理するためにも「書くこと」はよいことだと思う。苦しいけれど、必要以上にシリアスにはなりたくない。大事なのは、前を向くこと。つらくても前だけは見ていたいと思う。



なくした自信を回復するには…

無力とまではいかないけれど、認められていないなあ、必要とされていないなあと感じることがある。仕事でも人間関係でもなんでもそうだけれど、うまくいかないと自信をなくしてしまう。全部が全部自分のせいではないとはわかっていても、落ちこむし無気力になって何もしたくなくなる。また失敗するんじゃないかと怖くて動けなくなる。


でもまあ、落ちこんだり無気力になったりが長くは続かないのが私の良いところでもあって、たいてい一晩寝れば浮上する。


なくした自信を回復したければ、自分でどうにかするしかない。今の自分でできることからするしかない。


今までいろいろなことをしてきたけれど、どれも中途半端で、自信が持てるものを持てないままここまで来てしまった。ひとつのところにとどまることが今までなく、根っこをしっかりとはれずにいたのも、自信を持てない原因になっていると思う。


まあ、自信が持てなくても、それでも自分は自分だし、そもそも他者の評価なんていくらでも変わるし、あてにならないものだ。


評価されないこと、認められないことは悔しいことで辛いことだ。評価されたい、認められたいという欲から来るものだ。欲が強すぎて、評価や承認に固執しすぎて、それで自分で自分の首を絞めているように最近思えてならない。一旦評価や承認といったものから離れて、評価されようがされまいが淡々とやるべきことをやる、ひとつひとつを丁寧に着実に、そう切り替えようと思う。落ちこんでも陽はまた登る。繰り返しになるけれど、「自分ができることからするしかない」。



もし好きではないお菓子をお土産でもらったら、どうするか。

職場などでお土産のお菓子が配ったり、もらったりはまあよくあることだ。先日、同僚(仮にAさんとする)が某県を旅行したそうで、お土産のお菓子が1人1個配られた。私は初めて見るお菓子でたぶん有名なお菓子ではないと思う。


ある人(仮にBさんとする)が机の上のその配られたお土産のお菓子を見て、
「あ、これ好きじゃないから」
と、3個ほど残っていたお土産のお菓子の箱の中にポイッと投げ戻した。


うーん、投げるか普通?
 

私とその場にいた数人は顔を見合わせてしまった。お土産を買ってきた同僚(Aさん)もその場にいた。


まあ、お菓子を投げ戻したBさんは元々好き嫌いが激しくて、物言いもハッキリとした人だけれど、何人もが見ている前で投げ戻されると、買ってきた人は決してよい気持ちはしないだろう。実際お土産を買ってきたAさんは複雑な表情をしていた。


食べ物の好みは人それぞれ。お菓子の好き嫌いもあって当然だ。しかしながら、嫌いなら嫌いでいいから黙って人がいないときそっと戻せばいいのに。あるいは他の人に食べてもらってもよいと思う。


Bさんは投げ戻したお菓子がAさんが買ってきたものだ、ということを知らないらしく(もしかしたら誰が買ってきたとか興味がないのかもしれない)、相変わらず飄々としている。ハッキリとした物言いも変わらない。それはその人の個性だから、まあいいのだけれど、AさんはBさんに対して距離を置くようになった。まあお土産を投げ戻されるとようなことがあったばかりだから仕方がないと思う。まあ食べないからとゴミ箱に捨てられるのもよい気持ちはしないけれども。


もし好きではないお菓子をお土産でもらったらどうするか。さきほども書いたけれど、こっそり返すか、誰かに食べてもらうか、がトラブルにならなくてよいのではないだろうか。ハッキリと好き嫌いを表明したほうが親切な気もするし、でもまあ投げ戻すのはあんまりだと思う。ということで今日はこのへんで。



地道にコツコツとできることからー新年度の目標

2016年度がはじまった。
年の初めに目標とか書かない。明言しない。なんてことを書いていたけれど、やっぱりそれだど茫洋としてしまう。ブログには書かないけれど、今使っている手帳には書くことにした。目標を5つほど。5つくらいがすぐに思い出せてよいと思った。多すぎると達成できないものも増えそうだ。


地道にコツコツとできることからやっていこう。
ひとことで言うとそんな感じ。


目標を意識しつつ、毎日穏やかに、ブレずに丁寧に。
ブログについては、もっと言葉を駆使して表現できるようになりたい。


さあ新年度のはじまりだ。




早起き習慣の復活と英語の勉強

英語を勉強しようと思いつつ、夜は疲れて勉強する気になれないでいる(昼間は仕事)。うちに帰るとついついテレビを見たり録画を消費したり、いつのまにか寝てしまっていたり。


これから暖かくなってくるし、早起き習慣を復活させようと思ったので、宣言の意味もこめてここに書いておこう。


早く起きて英語を勉強する。
寝て頭がスッキリしているうちに勉強する。


前にも興味があるというのを書いたけれど、オンライン英会話についてもいろいろ調べている。低価格で、あと予約しやすいか、もしくは予約なしでもOKなところはないか、探している。会話の先生もいろいろ選べるとよいなと思う。こういうことが英語で話せるようになりたいというのが私の中にあるので、目的(目標)ははっきりしている。「英語は喋れてなんぼ」というのはまあ事実だと思う。もちろん「聞いてわかる」というのも大事だ。


まずは時間の確保。
早起き習慣の復活。


ちなみにこれが今勉強している本とCD。
CD音声を聞いて、それに対する答えを英語で言う練習をしている。英語を聞いて、反射的に英語で答えられるようになるまで練習するつもり。

英会話1000本ノック[入門編](CD付)

英会話1000本ノック[入門編](CD付)


入門編の次はこれ。

英会話1000本ノック

英会話1000本ノック



「自分の性格が嫌い」とか漠然とした問いに答えてみる

このブログを読んでいる人だったりツイッターのフォロワーだったりする方から悩みごとの相談をコメントやDMでもらうことがあるのだけれど、全然会ったこともない人なので、どう答えていいものか悩んでしまう。
アドバイスがほしいのだと思うけれど、漠然とした問いを投げかけられてもどう答えてよいか悩んでしまう。問いは、例えば「私は自分の性格が嫌いです。どうしたらこもこさんみたいになれますか?」とか「毎日つまらないです。どうしたら毎日楽しくなるんですか?」など。


わからないから聞いているのだと思うけれど、うーん、わたしもわからない。わたしもその方に聞きたい。「どうして自分の性格が嫌いなのか」「どうして毎日がつまらないのか。」


速攻で問いに対する答えを誰かに求めるよりも、まずは自分でどうしてか考えるところから始めたほうが、納得できる答えにたどり着けるかもしれない。


「いえ、考えてもわからないから聞いてるんです。悩んでるんです」と言われるかもしれないけれど、わたしなりに考えると、たぶん自分の性格が嫌いということは、自分の性格を好きになりたいということで、毎日つまらないということは毎日を楽しくしたいとそう思っているからで、それなら「どうして…?」を「どうしたら…?」に変えた方が、もう少し前向きに思考が動いていくのではないかと。


つまり「どうしたら自分の性格が好きになるのか?」「どうしたら毎日が楽しくなるのか?」問いを「どうしたら」変換させて自問自答してみては?ということをここに書いてみようと思う。


理想ばかり追い求めてもまあしょうがないし、適当にゆるく物事を考えていたほうが、精神的に追い詰められなくてよいかもしれない。性格は急には変わらないものだし、もしかしたら性格はどうやっても変わらないものかもしれないし、そのあたりは人それぞれで、無理しなくていいと思う。無理に好きにならなくてもいいし、滅茶苦茶嫌いにならなくてもいい、というか嫌いになったところで、自分は自分だし、結局自分の面倒は自分でみるしかない。おなかがすいたら何か食べなきゃだし、眠くなったら寝なきゃだし、楽しいことについても、そんなに楽しいことに固執しなくてよいと思う。楽しいことも、楽しいことばかりだと飽きる。飽きてつまらなくなる。私の場合、熱しやすく冷めやすいところがあるので、適当に複数楽しいことを身近に並べておく、くらいがいいのかもしれない。まあこれも人によりけりだ。


ネットを縦横無尽に漁れば、何か答えが見つかるかもしれない。どこかに答えが落ちているかもしれない。QandAサイトなどを見てみるのもいいかもしれない。しっくり来る答えがあるかもしれないし、ないかもしれない。結局は、自分がどう受け取るか。誰かの答えを良いと思って携えるか、あるいは自分で出した答えを携えるか、その違いだと思う。どちらでも好きな方を選べばいい。あるいは、選ばないという、答えを出さないという選択も有りだ。白黒つけられないことも世の中にはたくさんあって、「まあしょうがないよね」と目をつむることも処世術としてあるのは確かだ。


長くなってしまったので、まとめたいけれど、まとまりそうにない。
漠然とした問いは思考する良い機会だと思う。考え方の幅を広げるために悩む人向けに書かれた本を読んだり、ネットをあちこち見てみるのもいい。ただ、個人的に思うのは、一人の人に答えを求め、その人に全知全能な答えを期待するのはよくないと思う。というか「期待するような答えが返ってくるとは限らない」と思っていたほうがいい。ひとりの思考はやはりひとりの思考にすぎない。思考は偏っていたりするものだ。まあ、その偏りは個性であったり、その人らしさでもあるから、私は好きなのだけれど、その思考を誰かに押しつけるのはよくないよね、ということで、お開きにしよう。