「自分の性格が嫌い」とか漠然とした問いに答えてみる

このブログを読んでいる人だったりツイッターのフォロワーだったりする方から悩みごとの相談をコメントやDMでもらうことがあるのだけれど、全然会ったこともない人なので、どう答えていいものか悩んでしまう。
アドバイスがほしいのだと思うけれど、漠然とした問いを投げかけられてもどう答えてよいか悩んでしまう。問いは、例えば「私は自分の性格が嫌いです。どうしたらこもこさんみたいになれますか?」とか「毎日つまらないです。どうしたら毎日楽しくなるんですか?」など。


わからないから聞いているのだと思うけれど、うーん、わたしもわからない。わたしもその方に聞きたい。「どうして自分の性格が嫌いなのか」「どうして毎日がつまらないのか。」


速攻で問いに対する答えを誰かに求めるよりも、まずは自分でどうしてか考えるところから始めたほうが、納得できる答えにたどり着けるかもしれない。


「いえ、考えてもわからないから聞いてるんです。悩んでるんです」と言われるかもしれないけれど、わたしなりに考えると、たぶん自分の性格が嫌いということは、自分の性格を好きになりたいということで、毎日つまらないということは毎日を楽しくしたいとそう思っているからで、それなら「どうして…?」を「どうしたら…?」に変えた方が、もう少し前向きに思考が動いていくのではないかと。


つまり「どうしたら自分の性格が好きになるのか?」「どうしたら毎日が楽しくなるのか?」問いを「どうしたら」変換させて自問自答してみては?ということをここに書いてみようと思う。


理想ばかり追い求めてもまあしょうがないし、適当にゆるく物事を考えていたほうが、精神的に追い詰められなくてよいかもしれない。性格は急には変わらないものだし、もしかしたら性格はどうやっても変わらないものかもしれないし、そのあたりは人それぞれで、無理しなくていいと思う。無理に好きにならなくてもいいし、滅茶苦茶嫌いにならなくてもいい、というか嫌いになったところで、自分は自分だし、結局自分の面倒は自分でみるしかない。おなかがすいたら何か食べなきゃだし、眠くなったら寝なきゃだし、楽しいことについても、そんなに楽しいことに固執しなくてよいと思う。楽しいことも、楽しいことばかりだと飽きる。飽きてつまらなくなる。私の場合、熱しやすく冷めやすいところがあるので、適当に複数楽しいことを身近に並べておく、くらいがいいのかもしれない。まあこれも人によりけりだ。


ネットを縦横無尽に漁れば、何か答えが見つかるかもしれない。どこかに答えが落ちているかもしれない。QandAサイトなどを見てみるのもいいかもしれない。しっくり来る答えがあるかもしれないし、ないかもしれない。結局は、自分がどう受け取るか。誰かの答えを良いと思って携えるか、あるいは自分で出した答えを携えるか、その違いだと思う。どちらでも好きな方を選べばいい。あるいは、選ばないという、答えを出さないという選択も有りだ。白黒つけられないことも世の中にはたくさんあって、「まあしょうがないよね」と目をつむることも処世術としてあるのは確かだ。


長くなってしまったので、まとめたいけれど、まとまりそうにない。
漠然とした問いは思考する良い機会だと思う。考え方の幅を広げるために悩む人向けに書かれた本を読んだり、ネットをあちこち見てみるのもいい。ただ、個人的に思うのは、一人の人に答えを求め、その人に全知全能な答えを期待するのはよくないと思う。というか「期待するような答えが返ってくるとは限らない」と思っていたほうがいい。ひとりの思考はやはりひとりの思考にすぎない。思考は偏っていたりするものだ。まあ、その偏りは個性であったり、その人らしさでもあるから、私は好きなのだけれど、その思考を誰かに押しつけるのはよくないよね、ということで、お開きにしよう。