更新されなくなったブログは読まれるのだろうか

ふと思ったので、書いてみる。
「更新されなくなったブログは読まれるのだろうか」ということ。


結論から言えば、「ある程度読まれる」。
読まれているのは、過去記事。
このブログも過去記事が2000以上あるので、日々どれかの記事が読まれているようだ。
(このブログではないけれど、過去記事が少ないブログの場合でも、週に10~20のアクセスはある)


当ブログの詳細なアクセス数は公開しないようにしているので、厳密には書かないけれど、更新しなくなった最近でも「最盛期の4分の1のアクセス」があるようだ。逆に言えば、最盛期は4倍のアクセス数があったわけで、これは、「はてブ」や「ほってんとり」「ニュースサイト」からのアクセスがかなり影響している。


当時は、更新することが楽しくて、書かずにはいられなくて、書いたもので承認欲求を満たすことに躍起になっていたのだと思う。
そして、その承認欲求を満たす場が「ブログ」から「仕事」へとシフトして、自然とブログから遠ざかっていったのだと、自分で分析するのだけれど、それでも、「ブログ」と「仕事」の両立はできなかったものなのか、と思わないでもない。


たいして器用でもない自分が両立を目指せば、きっと無理がくる。
ブログを2000以上書いていくうちに、自分の思うようにはならないという「ブログの限界」を感じていたのも事実で、そもそもその「ブログの限界」の理由は「わたし自身の中身のなさ」でもあったように思う。


書きたいこと、書けることがなくなれば、自然と更新回数も減っていく。
「中身のなさ」は明らかなのに、いつも似たようなことしか書けないのに、無理やり更新するようなことはしたくなかった。ブログのことはいつも頭のどこかにあったけれど、「中身のなさ」の露呈が怖くて、それで更新できなくなっていった。おそらくそういうことなのだと思う。


このブログにかぎらず、多くのブログが更新されなくなっていく。更新されなくなるのは、個々それなりに理由があって、それを外野がとやかく言うべきではない。
そして、更新されなくなったブログが忘れさられても、それは仕方がないこと。



仕方がないこととはいえ、忘れさられるのは、悲しいものだ。


11年前、わたしが書いた記事。
komoko.hatenablog.com
これは書いたのを珍しくはっきり覚えている。気に入っている記事だ。


今日のタイトルに戻る。
「更新されなくなったブログは読まれるのだろうか」
更新されなくなったブログでも読まれる。
読まれるけれど、それは過去記事への一見さんばかりだ。
たまたまちょっとのぞいただけで、10秒も読んでいなかったかもしれない。
「読まれる」というのは、そういうことではないように思う。
わたしは、過去記事も含めて「その人が書くものが読みたい」そう言われるブログ主になりたい。


中身のなさに、おびえていてはいけないと思う。
そのとき、書けることを書けばいい。
ブログというのは、そういうものだと思う。



息抜き読書

息抜きも時には必要だ。
やらないといけないことは、数えたくないほどあるのだけれど、まぁこれまでやらなくても「なんとかなっている」のだから、少々先延ばししても大丈夫だと思わないでもない。それより「息抜き」だ。さっき「生き抜き」と変換されて、少し驚いたけれど、「生き抜くための息抜き」というのはまんざら的を射ているようにも思えなくもない。


最近いろいろなことがありすぎて、多少のことでは驚かなくなっている。自分の中にある感覚が麻痺してしまっていて、「これはまずいな」と。「苦しい」とか「つらい」とか、そういう感覚も、長く続くと、当たり前のようになってくる。「痛みを感じなくなる=麻痺」の自覚。疲れているせいもある。ストレスのせいも。


そして、思った。これからどうなるんだろう、と。


不安になる癖はよくない癖だ。


不安を少しでも薄められるのであれば、なんだってする。
なにもしないから、不安が濃く沈殿していくのだ。


さて、何をしよう。


どこか行ったことがない場所へ、ふらりと旅行するような、そんなタイプではわたしはないので、結局のところ、昔からしていることに原点に戻るのがベストチョイスな気がする。


で、読書。
読みたいと少しでも思えた本を、手元に30冊くらい集めて、少しずつ読んでいくことにした。



まず読んだのがこの本。
ヤマザキマリさんといえば、『テルマエ・ロマエ』を書いた漫画家さんなのだけれど、

ヤマザキマリさんが語るヤマザキマリさんのお母さん(リョウコさん)は確かに破天荒なのだけれど、その破天荒さがヤマザキマリさんに最終的には良い影響を与え、現在へと至っているようにも思えてならない。


人が千差万別であるように、親も千差万別。親には親の生き方があって、子には子の生き方がある。


なにを悟ったようなこと書いているんだ?と自分で思わないでもないけれど、人が千差万別であるのは確か。簡単にタイプ分け、カテゴリー分けしてほしくないと思うし、見えている部分以上に見えていない部分(見せていない部分)のほうが広大だということをわたしは常々思ってやまない。


自分の中の感覚の麻痺が、読書で治るかどうかは、自分でもまだわからない。
わからないけれど、こうして考え、何か書こうとなったのは、よい兆候かもしれない。




苦しい日々

焦っているつもりはないのだけれど、やはり焦っているのかもしれない。
なにかとうまくいかないことが多い。少し高い踏み台に立っていたのに、その踏み台から引きずり降ろされるようなこともあって、精神的なダメージからまだ回復できていない。


精神的なダメージは、時間にまかせるしかないように思う。時間が薬。


うまくいかないことばかりで、折れそうになるけれど、今のところ、まだ折れてはいない。


ただ、焦って、苦しい。


「苦しい」ということに焦点をあてるから、余計に苦しいと思ってしまうのかもしれない。


明日は力を抜いて、気楽に行こう。1時間ごとに深呼吸を10回くらいしよう。



暗闇のなかで手さぐり

ふと昔よく聞いていた音楽を聞いて、昔とは違う感じ方をしたのだけれど、自分の感覚の変化に気づいた瞬間、自分を取り巻く暗闇をまざまざと思い知って、あらためて怖くなった。


少し前、人が亡くなる瞬間、偶然その場に居合わせることがあった。本当に偶然の出来事だったのだけれど、そのとき目にした光景が焼き付いて、今でも時折フラッシュバックしてしまう。


一寸先は闇だなぁと、その日以来繰り返し思うようになった。


なにかにすがりたい気持ち、なにかで紛らわせたいという気持ちが背中から迫ってくるのだけれど、その「なにか」がわからない。とりあえず、今は音楽を聞いているのだけれど、特効薬ではないようだ。漢方薬のように、じわじわ効いてきている気もしているけれど。


いや、この「じわじわ感」がもしかしたらよいのかもしれない。


以前からそうだったのだけれど、最近はさらに急速な変化を嫌うようになった。チャレンジも、まぁ悪いことではないと思う。でも、変化を受け入れられるような余裕がないとき、焦ってチャレンジすべきではないと思う。例えば、転職や引っ越しなど。焦って行動してよいことはない。それは経験的に痛感していることだ。


暗闇は怖い。けれど暗闇も、慣れれば、落ち着いてよいものなのかもしれない。静かであれば、もっとよい。静かすぎて寂しいのなら、好きな音楽を。


夜は空を見上げる。月を歯みがきの習慣のように探す。今日の月の形を、色を、見てホッとするのはよいものだ。


今、暗闇のなかで手さぐり状態で、心身ともにあちこち傷ついて、その痛みに辟易しているのだけれど、でもまぁ、今日も音楽が聴けて、月が見れたから、それでいいかな、と。




勉強について最近思うこと

今日は勉強について最近思うことを書いておきます。
なかなか覚えられないことは語呂合わせを使ってでも覚えようとしていますが、それでも忘れてしまうことのほうが多いので、繰り返し読むことと問題を解くことで記憶定着を図ろうとしています。資格試験であれば、過去問は早めに解いておいたほうがいいです。解く際は時間も計ります。


問題集を選ぶ際は、できるだけ解説が詳しいものを選ぶこと。最初は手も足も出せないような問題であれば、解説を見ながら解いていく、そのやり方もありです。


そして一度の勉強の時間を長くしすぎないこと。人それぞれ集中できる時間というのは違うので、自分の集中できる時間をだいたい把握しておいて、短い休憩をはさみながら、勉強したほうがよいように思います。例えば、30分勉強して10分休憩。また30分勉強して10分休憩、というように。人にもよりけりですが、休みの日にまとめて勉強するよりも毎日少しずつ勉強したほうが記憶の定着はよいように思います。


まちがえた問題には、チェックをつけておくようにし、何度も問題を解くようにしています。チェックを見て、前回まちがえた問題だとわかるのですが、それでもまた答えを間違えたり、答えに悩んだりします。そういうまちがえる問題、答えに悩む問題は自分のウィークポイント(弱点)であり、苦手な箇所なわけですから、よりいっそう意識して勉強するようにします。参考書を読んだり、ことば(用語)や意味を覚えたり。


覚えたことも忘れてしまうのは、仕方がないこと。忘れてしまうから、何度も復習する。繰り返し問題を解く。それが大事だと思います。
以前書いた記事です。
komoko.hatenablog.com


今読んでいる本です。

試験に「合格する人」と「落ちる人」の習慣 (アスカビジネス)

試験に「合格する人」と「落ちる人」の習慣 (アスカビジネス)





読んでいる本『ヴィクトリア朝の英国人の日常生活 貴族から労働者階級まで』

読書が趣味なのだけれど、最近特に読んでいるのは、歴史関係、とりわけイギリスのヴィクトリア朝あたりの文化史に興味があって、関連の本をよく読んでいる。


そもそもイギリスに興味を持ち始めたのは、漫画「エマ」がきっかけだ。

エマ 10巻 (HARTA COMIX)

エマ 10巻 (HARTA COMIX)

エマ  全10巻 完結セット  (Beam comix)

エマ 全10巻 完結セット (Beam comix)


今、読んでいる本は、

ヴィクトリア朝英国人の日常生活 上:貴族から労働者階級まで

ヴィクトリア朝英国人の日常生活 上:貴族から労働者階級まで

ヴィクトリア朝英国人の日常生活 下:貴族から労働者階級まで

ヴィクトリア朝英国人の日常生活 下:貴族から労働者階級まで

これを読むと、ヴィクトリア朝時代の生活が細かくわかって、面白い。
朝起きて、どんなことをし、服は男性、女性、階級によって服装は異なるのだけれど、どんなものを着ていたか、当時の身だしなみについてや、運動(当時美容体操があったらしい)や仕事に家事、学校や余暇、そして当時の食事についても、わかりやすく書かれていて、興味深い。
当時は今より当然不便で、食事も現代のそれとは違う。家事の大変さも現代とは比べ物にならないことがこの本を読むとよくわかる。


読み始めてまず面白いと思ったのは、工場労働者など早朝出勤しなければならない人々のために、「目覚まし屋」という職業の人がいたということだ。「目覚まし屋」は依頼者の寝室の窓ガラスをこんこんと叩いて依頼者を起こしていたらしい。当時置き時計や懐中時計が高価で、労働者階級の人々には購入する余裕がなかったので、こういう「目覚まし屋」の需要があったと思われる。現代で早朝に新聞配達をするように、ヴィクトリア朝時代、担当の窓々を長い杖で窓ガラスを叩いてまわっていたのだろう。現代では、時計も安価で手に入るし、アラームの機能もたいていついている。電話をかけて起こしてくれる有料のモーニングコールのサービスが現代版「目覚まし屋」ということになるだろうか。


ヴィクトリア朝時代、コルセットはすべての階級の女性たちが着用していて、見た目のために着用しているだけではなく、健康のために女性にはコルセットが必要だと考えられていたようで、「保護」のためのコルセットという観点が私にとってとても新鮮に感じられた。とはいえ、一方でコルセットで背中と腹部を保護すると、そのコルセットで支えられた部分の筋肉はほとんど使われなくなるため、衰弱し、コルセットをはずすと、筋肉がない(弱い)ため、姿勢を保つのも難しく、すぐに疲れてしまうという皮肉な結果につながったそうだ。したがって、当時の女性はますますコルセットが手放せなくなるのだけれど、読んだ本によると、コルセットには内臓を温める(冷やさない)効果もあり、当時家の中でもかなり寒かったらしいので、防寒着としての役割も果たし、きつく締めすぎるコルセットは体に害だけれど、なによりもコルセットをつけない女性は自制心に欠けると周りから見られたそうで、「コルセットをつけない=だらしない」と世間からつまはじきにされる風潮に多くの女性は抗えず、また、コルセットをつけるのは当たり前だと思って日々コルセットを着用していたのではないだろうか。


第1章 起床 にはじまって第15章 寝室での営み まであるのだけれど、読んでいて本当に飽きない。『ヴィクトリア朝の英国人の日常生活 貴族から労働者階級まで』この本では労働者階級まで言及してあるところが面白く、当時どんなものを食べていたかについても詳しく書かれていて(地域差、時代差もある)、飢えや栄養不足に悩まされていたこともこの本を読んで知った。なんというか、本当に知らないことばかりで、漫画や映画、ドラマなどを見ただけでは、表層のことしか見ていないのだと痛感させられてしまう。知らないことを知る面白さ。私が本を読むのはそこだと思う。

ヴィクトリア朝英国人の日常生活 上:貴族から労働者階級まで

ヴィクトリア朝英国人の日常生活 上:貴族から労働者階級まで

ヴィクトリア朝英国人の日常生活 下:貴族から労働者階級まで

ヴィクトリア朝英国人の日常生活 下:貴族から労働者階級まで

丁寧に隅から隅まで読みたい本だ。




沼のような気分のまま、私は本屋へ駆けこんだ。

先日、自分では、どうにもならないことで凹んで、座りこんでしまった。
どうにもならないことなのだから、あきらめるしかないのだけれど、その時点ではとてもあきらめられるような気分ではなく、自分の無力さとか、どうにかしたいという苛立ちの沼に引きずりこまれて、身動きがとれないでいた。


数日経って、状況はほとんど変わらないのだけれど、気分的には落ち着きを取り戻しつつある。
どうして落ち着きを取り戻しつつあるのか。


ヒントは本屋。


凹んで、座りこんで、もう一歩も動けそうになかったのだけれど、こういうときこそ、好きなことをしたほうがいい。
なにが好きか。
わたしは本を読むのが好きだ。
本屋で本を見てまわるのが好きだ。
大型書店なら、何時間でもそこに居られる。
一度開店から閉店まで、大型書店で過ごせたら、さぞかし満足する1日になるだろう、と考えている。


沼のような気分のまま、私は本屋へ駆けこんだ。
そして衝動的に本を買った。
好きな作家の本を。

なにものにもこだわらない

なにものにもこだわらない

なにものにもこだわらない

なにものにもこだわらない


237ページの本だけれど、もう何度も繰り返し読んでいる。

本の内容は、抽象的なことが多いのだけれど、抽象的だからこそ、自分のことのように考えられるというのはある。
私のブログもそうだけれど、具体的に凹んだ原因、事柄は書かないけれど、誰だって凹むことはあるだろうし、また多くの人は、凹みから回復したい、なんとか立ち直りたいと思うのではないだろうか。抽象的な文から自分なりの解釈をして、自分なりの考えを得てほしいと思う。


凹んだ時、元気がない時、私は本屋へ行く。そして直感で、衝動で、読みたい本を買う。
今回は、たまたま好きな作家の新刊を手にしたのだけれど、やっぱり好きな作家の本は安心して読めるから好きだと妙に納得している。



過去、ものすごくこだわる自分がいた。
それは苦しいことだった。(今思うと)


こだわること。こだわりがあるということは、当時良いことだと思っていたけれど、今はちがう。
できるだけ、こだわらない方向に自分をもっていきたい。
そもそも、まったくどんなことにもこだわらないでいられるというのは、土台無理なことだろうし。


もっともっとこだわらない自分になりたいと、そう思う。
自由に。
もっと自由に考え、動けたら、と。


なにものにもこだわらない

なにものにもこだわらない

なにものにもこだわらない

なにものにもこだわらない

こだわること、こだわらないことについて考える参考になる本です。