『これまでの知識といまの知識とこれからの知識』を読んで。『内的知識』の質について考えてみた。

これまでの知識といまの知識とこれからの知識快適な就活ノート)より

疑問を抱いてから検索するまでがシームレスになったからかも知れない。

なるほど。シームレスですねー。私自身、ネットで調べる、ググるというのが日常的になってますね。やはりネットで検索というのは、便利だし、助かってますね。ただ、知識という観点に立つといろいろ考えなきゃいけないのかなーとそういう風に思うわけで……。

内的知識、外的知識とか勢いで名付けちゃったけど、やってることはネットの発達以前と変わらない。書物を読んで、それを自分の知識にする。書物が外的知識。その外的知識がより身近になったとゆーだけのことかも。

もちろんもちろん、本質的な意味での"知識"は内的知識の方で、外的知識よりもこちらのほうが重要。

外的知識があふれまくる時だからこそ、内的知識の質が試されるかもしれない。検索能力の次に求められる"知識"関連の能力は、外的知識をいかに効率的に内的知識にするか、といったことかもしれない。

とても同意(^ω^)
『外的知識』『内的知識』という言葉にビビっときました。以下『内的知識の質』ということについていろいろ考えてみたのでざっと書いてみます。


『外的知識をいかに効率的に内的知識にするか』というのも能力ですよね。言い換えれば、外的知識を自分の知識として吸収する能力。調べる(検索する)方法はシームレスでやりやすくなった。


しかしながら調べやすくなった弊害もあるとそう思うのです。
やりやすくなったけれど、ネットで調べて、ふんふんそうなのねーで終わってしまいがちなんじゃないかなぁ。ほんの一部を見て齧って、それでもう「よし」としてしまっているような……。表面だけ見て、分かったつもりになってしまうのですよね。本質とか物事の背景とか裏とかそこまで追おうとは思わない。ネットで調べて数行、あるいは数十行でわかったつもりになっているから知識としては浅いし、分かったつもりのレベルだから、人にきちんと説明できなかったりするのですよね。


つまり、内的知識の質としては良いものとはいえない。ただインプットしただけの知識だったりする。うーん、それじゃいけないなーと思うのですよね。知識を自分のものにするということは、その知識について人に説明できるくらいじゃないと。知識の質が悪い、つまりよく分かっていないのに、分かったつもりになっているのは危険なんじゃないかな。