肩の力を抜いて
個人が識別できなくなる、その他大勢に溶け込めるのが都会なのではないかと思った。いちいちどこどこの誰々さんと識別されないのは気楽だと思う。
少し前に聞いた話。友人は同居している義父(知人の旦那さんのお父さん)を呼びにパチンコ店まで行ったそうだ。近所の人がそれを見ていて、お嫁さんである友人もパチンコ通いをするようになったという噂が立ったのだそうだ。友人はパチンコをしない。パチンコにしばしば行くのは義父で、携帯も持たない義父を義母が呼んでいたためパチンコ店まで友人が迎えに行っただけなのだが、どういうわけか嫁もパチンコをするようになったと噂が広まり、これだから田舎は嫌だと友人。いつもどこかで知り合いに会う。挨拶をしないとうるさいし、どこで何をしているかチェックされているみたいだ、と。
縛られるものが少ないのが都会かもしれない。選択肢や自由度は都会のほうが高いように思う。
その他大勢に埋没することの気楽さ、消えても気づかれないのも都会のほうだと思う。
消えても気づかれない。人それぞれの毎日、日常はそれぞれに続いていく。ということは、もっと肩の力を抜いてもいいんじゃないかと思った。
自分がたとえいなくなっても世界は変わらない。世界は日常を残ったメンバーで続けていく。(というか、残ったメンバーでなんとかやっていくしかない。)
田舎でも都会でも噂をする人は噂をする。人の口に戸は立てられない。誰がなんと言おうと自分がやりたいことをやるべきだ、というような詩を読んだことがあるけれど、本当にそうだと思う。やっていることをやったことを認めてもらえないとしても、それでもやらないよりはやってみたほうがいい。どこに住んでいても何かできると思う。肩の力を抜いて、やりたいことをやる。やりたいことはいろいろやった、と最期に言える人生にしたい。そんな風に思うのだけれど。