専門書はどうしてこう複雑で難しいのだろう。読めば読むほど、読んでも読んでもわからなくて、自分の読解力のなさに嘆息してしまう。
「わからないならわからないままでいいや」という気持ちさえ生まれる。複雑さ煩雑さは心を折れさせる。もっと単純にシンプルにできないものだろうか。
人についてもよくわからない人は困るというか怖いと思うようになった。人の心の中は複雑で、そう思うのはよくわからないからかもしれない。まあ、わたしも何を考えているかわからないと言われることもあるのだけれど、たいしたことは考えていない。ねむいとかおなかすいたとか、おいしいものが食べたいとかおいしいコーヒーが飲みたいとか晩ごはんは何を作ろうとかそういうことばかり考えてる。
単純でシンプルなものが好きだ。
電子レンジも温める機能だけでいい。買ったレンジはオーブンの機能もついているのだけれど、1度も使ったことがない。
スマホのアプリもほとんど削除してしまった。ネットがつながっていて、あとはメールのやりとりができればそれでいい。電話は苦手なので、私からは滅多にかけないし、かかってきても気が付かないことが多い。スマホに電話の機能はいらないと思っているのは私だけだろうか。連絡はメールでいいよね?
大切なことなのでまた書く。単純でシンプルなものの、わかりやすさ、スッキリ感が好きだ。ごちゃごちゃとしたものは本当に苦手で、人混みもますます苦手というか嫌いだ。大勢の人が集まるところは怖いとさえ思うようになった。何が起こるかわからない怖さを警戒しているのだと思う。
私自身、自分のこともよくわかっていなくて、多分理解力とか察する力が不足しているのだと思う。ましてや自分以外の人のことを理解するのはさらにさらに難しく、理解しようと思えば思うほどわからなくなる。理解しようとすると踏みこまないといけなくて(突っ込んで聞かないといけなくて)、どういう感じで踏みこんでいいものか考えてしまう。また踏みこまれたくない人もいるだろう。私も無遠慮にズケズケと踏みこまれたくないし、誰にもそういう領域(聖域)はあると思う。
さて、話を戻して、私は単純でシンプルなことを良しとするので、複雑な心の機微まで読み取りきれないのだと思う。いや、それでも少しは読み取ろうと努力はしているのだけれど。
人の心の複雑さはわかる。言葉にできるものばかりではないということも。何も言わずにそっとしておいてほしい空気とか心地よい沈黙とか黄昏時の優しい空気とか夜空に月を見つけた瞬間のあの感じとか、わかる。言葉にできない想いや苦しさ、後悔、悔しさ、寂しさ、虚しさ、あきらめきれない気持ちや取り戻したい気持ち、それもわかる。わかるけれど、私はそれらに囚われ動けなくなるのは嫌だと思っている。さまざまなものを抱きかかえつつもブレない自分でいたい。いつも安定したコンディションでいたいと言ってもいい。そのコンディションは心のコンディションも含め自分で整えるものだと思っている。どうしようもないことは、とりあえず置いておいて、他のやるべきことをやるほうがいい。ルーティンワークでもなんでもいいから。抱えているさまざまなもの、それらはいつか邂逅するときが必ず来ると思っている。今はその時期ではないだけで。
毎食きちんと食べて、日常をこなして、疲れて眠る。それが単純だけど、健康的で良いと思う。食べたいものが食べれて自分の布団で眠れるというのは幸せだ。
単純でオメデタイと言われそうだけれど、もうめんどくさいこと煩わしいことはしたくないというのが本音だ。もっとやりたいことややるべきことがあるから、そちらに時間も体力も手間ひまも使いたい。
ひとつひとつを単純にシンプルにしていきたい。いつもスッキリとしていたい。