変化に適応することと自分の現在位置

コロナ禍で、考えたことは灰色の靄(もや)の中に消えてしまって、なかなか見つけられそうにない。
でも、ふと考えたことが、湯舟に浸かっているいるときにポップアップしてくるので、忘れないうちに書いておこうと思う。


変化は、ストレスだ。変化に適応するのがはやい人もいれば、そうでない人もいる。日常生活、仕事のやり方等々、変わることを受け入れなければならないと頭ではわかっていても、そう簡単に変われなかったりもする。


変化は、ストレスだとさっき書いたけれど、変化は、不安を連れてくる。どう変わるかわからない不安。「不安になること=つらいこと」と感じてしまって、コロナ禍、石膏のように固まってしまう自分がいた。ガチガチに固まった状態、といってもそれは外側だけで、中ではドロドロのスライムのように様々な思考実験を繰り返していた。例えば、もしコロナに感染したらどうしようとか、もし仕事がなくなったらどうしようとか、自分では対処できないことへの不安は無力感や自分自身への失望感を引き連れてきて、これはなんともなかなか強烈だったりした。


自分だけが不安なわけじゃない。不安なのは他の人も同じ。そうはいっても、自分の不安は自分でなんとかしないと、と思ってしまう。本などを読むと、「他者と気持ちを共有するとよい」とか「身近な人に支えてもらうようにする」とかそういうことを書いてあったりするけれど、なかなかどうして、他者と気持ちを共有できるほど打ち解けるというのはハードルが高いよ、誰でもオープンになれるわけじゃないんだよね、他者と気持ちを共有するのが苦手だったり、気持ちの押しつけや迷惑になってしまわないかとか心配になってストレスになる人もいるんだよね、なとど思ってしまう。


さて、話をタイトルの話に戻すと、変化に適応することは、場合によっては、なかなか難しい。変化はストレス、不安を伴うもの。自分の現在位置が強制的に変わるのだから、ストレスも不安も当たり前のこと。ゆえに、それらに対して否定的になったりせずに、「まぁなんとかなるんじゃないかな」くらいに気持ちを冷ましておいたほうがいいような気がする。


自分ではコントロールできないものが降りかかってくることは、そう多くはないにしろ、やっぱりある。そもそも、なんでも自分でコントロールできると思うのがまちがいなんだと思う。まぁ、コントロールできないことのほうが圧倒的に多いのだけれど、それでも少しでも自分でコントロールできることを見つけて、達成感なり充実感なり、選択できる幸福感を感じるほうがよいのかなと。


いろいろ追加修正したけど、うまくまとまりそうにないので、今日はこのへんで。