作り上げられた記憶、曖昧な記憶に振り回されるということ

記憶というのは、自分だけのもので、他の人がどうこう操作できるものではない。

とはいえ、記憶は「絶対」ではないことを忘れないために書き残しておこう。


最近よく本を読んでいる。
本を読み終わって1週間ほど経ったところで、もう一度確認したい箇所が出てきた。
気になる文章が脳内で耐久盆踊り。
あの文章はどういう流れで出てきたんだろうと、再び本をめくることに。


が、見つからない。
まるで氷がとけて、水に、そして蒸発してしまったかのように見当たらない。


わたしの記憶違いだったのだろうか。
探せど探せど、見つからない。


最近は並行で数冊本を読んでいるので、もしかしたら、他の本だったのかもしれない。
ここ最近読んだ本たちをめくってはめくって、探す探す探す。


読んだ本の中の文章。もう一度確認したいと、探すという行為に憑りつかれる
(過集中の傾向は自覚がある)


憑りつかれつつも、AパートとBパートの間にCMが入るように、ふと我にかえることもある。
「これだけ探して見つからないということは、あの文章は「本を読みながら作りだした自分の記憶」なのかもしれない。
本の中に実際に書かれていたわけではないのかも…と。



今回は、あの文章はおそらく私があとから勝手に作りだした文章で、それをあたかもその本の中に書いてあったかのように思いこんでいて、うーん、これって、対人に関しても言えることだなぁと。


つまり、あの人がこう言った。こんなことを言った。あんなことを言った…。それは、録音でもしていないかぎり、自分が聞いた声の記憶でしかなく、もしかしたら、その記憶したものは間違っているかもしれない。実はそういう風には言っていなかったとか、相手の言葉のほんの一部しか覚えていなかったり、拡大解釈したり、曲げて解釈したり。それをあたかもそうその人が言ったと、記憶してしまう…。こわいな。


作り上げられた記憶、曖昧な記憶に振り回されることは、実は多い。
記憶違いを認めるのは、なかなか簡単なことではないようで、
自分は正しい、間違っていないという自信、プライドと関係しているかもしれない。


人の数だけ記憶があるのだから、ひとつの過去に対して、見解が嚙み合わないことがあるのは、なるほど当たり前かもしれない。
相手も自分と同じように記憶しているとは限らない。


さて、話を戻して、ここで書きたかったのは、
記憶というのは、バイアスがかかっていたり、曖昧だったりするで、過信するのはよくないということ。
記憶は時に棘のように深く深く突き刺さって、まわりを化膿させたりするから、厄介なものだ。
まぁこのこと(棘のように刺さること)については、書けたら書きたいテーマではあるけれど。
長くなったので、このへんで。