どうして見えるものに惑わされてしまうのだろうか。
『光が死んだ夏』を読んで思ったことをつらつら書いてみる。
光は死んでるし、中にいるのは光ではないナニカなのに、それがわかっていて離れることができないのは、ヤバいと思う。実際、よしき本人もヤバいとわかっているのに、切り捨てられないのは根が優しいからなのかもしれない。見た目は幼なじみで友だちだから、というのもあるのだろうか。
光の中に入りこんだナニカはまだ幼く、「俺が教えてやらんと」よしきが思っているような場面がある。そう思うよしきは優しいと思う一方、怖いもの知らずだとも思う。いや、よしき本人、光るの中に入りこんだナニカが危険なのをわかっていながら、それでも離れられないでいて、よしきも寂しいのかなと。
実のところ、私はホラー系は苦手で、『光が死んだ夏』の1巻を読んだ後、続きを読むかどうか迷っていた。迷ったけれど、2巻を手にしたのは、やはり続きが気になっていたからで、怖さより興味関心が勝ったということだろう。
さて。今日のタイトル「どうして見えるものに惑わされてしまうのか。」
私の場合、普段見えるものにいちいち振り回されがちで、本当に疲れる。悠然と構えて、いちいち気にしなければいいのに、目にしたものが脳に刺さってスクショされてしまう。一度スクショされてしまうと、なかなか消すことができないので厄介だ。
脳内にスクショされるものを選べればいいのだけれど、選べないのが現実だ。
あるいは要らないスクショはどんどん消去できたらいいのにと思う。
要らない、見たくないと思うスクショが、ふいに脳裏に浮かんでしまうのは、なんでだろう。
思うに、見えるものにいちいちネガティブな情報を加えて、不安な気分になるのは、生存のための用心深さをキープするためかもしれない。「もし〜たらどうしよう」という予防線を張る作業は、面倒くさい一方で自己防衛のために必要なものでもあると思う。
しかしながら、あまりにも予防線をはりすぎる作業が多すぎるのは、疲れる。
自分でも何をやってるんだろう?と思う。
テキトーなところで、自分を納得させ、脳内スクショはスクショであって、今見えているものではないと、自分に言い聞かせるしかないのか。
マンガ『光が死んだ夏』の話に戻すと、
光は死んで、もういない、光の体だけが器としてそこにあるだけで、それは光ではない。
もう諦めるしかないんだよと言いたいけれど、そう言ってしまうのは残酷だろうか。
そして、諦めるというのは、実のところすごく難しいことのように思う。
諦めて、そして次のステップや違う方向へ行くことができる的な考え方もできるけれど、
諦めたことによる後悔もつきまとう可能性があるわけで、
光の体が器としてそこにある以上、光の姿が見えている以上、簡単に諦める(切り捨てる)ことはできない、見えるものに惑わされてしまうのは仕方がないことのように思う。(人間的というか)
なんだかまとまらなかったが、今日はこのへんで。