読んだ本「親指の恋人」

少し前に読んだ本「親指の恋人」(石田衣良小学館の感想というか考えたことメモ

以下ネタバレありです。

「なんか頭のいい男の子の髪の毛してるね。さらさらだもん。スミオは社会の一番うえのほうにいるでしょう。でも、わたしはどん底にいる。うえにいる人はちょっとエレベーターでしたのほうを見学にくるのは簡単なんだ。おりるだけだから。でも、したの人間はそうはいかない。一歩ずつ重力に逆らって、のぼらなくちゃいけない」

「スミオとわたしのあいだには絶対に越えられない壁があるんだよ。それに気づかないのは、スミオがうえの人で、おまけにいい人だからだよ。わたしたちは、同じ時代に生まれたけど、同じ世界に生きてるわけじゃない」

この文を読んでかなしくなりましたね。
この「親指の恋人」は現代版のロミジュリなわけで、二人はクスリによる自殺をはかります。私はこの作品がロミジュリものだとは知らずに読んだわけですが、端的に感想を書くなら「私なら死は選ばない」ということでしょうか。


たとえ結ばれなくても、結婚という形をとらなくても、ずっと好きでいると思う。好きなままでいる。
恋愛のすべてが成就するわけではない。それはわかりきったこと。好きになった人と必ず結ばれるわけじゃない。
それでも心から好きになれた人がいるならそれでいいとそういう風に思いますね。たとえ結ばれなくてもひそかに想い続ける。

スミオはスミオのいるところで、ベストを尽くす。わたしはわたしで、なんとかどん底から這いあがる。それでいいじゃん

ジュリアのセリフです。このセリフは好き。
自分の今いるところでベストを尽くすというのは私も思うことです。

自分を見失いたくないというところがいつもあります。自分の軸を持っていたい。自分の足で歩きたい。誰かに依存するのではなく、自分で前を向いて歩いていたい。



最後のあたりです↓

ぼくにはジュリアを幸福にする力はないんだって。
ぼくたちがいっしょに幸せになれない世界なら、もうここにいる理由はないよ。

幸せになれないからといって、ここにいる理由はないというスミオ。
それはちがうと思う。
好きな人がいる、同じ空の下にいる、それだけで幸せだと思う。
会おうと思えば会える彼らは幸せだと思う。

澄雄はシャンパンの化粧箱にかかっていた赤いリボンを拾った。携帯メールを打っているジュリアの右手首に結び、残りの端を自分の左手に蝶結びにした。
(中略)
「ぼくたちがむこうにいっても別々な場所にいかないように。そのおまじない」

むこうで、次の世界でふたりが必ずしも出会えるとはかぎらない。
どうして出会えた世界を大切にしないのか。出会えた世界で生きようとしないのか。


久しぶりに読んだ恋愛小説。ロミジュリものはやはり好きではないですね。かなしくなるので。