心が穏やかに凪ぐ時間を持つようにする

読んだ本からの引用。

人間は、あれやこれやのはかない感情を経験したときではなく、自分の感情はすべて束の間のものであることを理解し、そうした感情を渇愛することをやめたとき初めて、苦しみから解放される。それが仏教で瞑想の修練を積む目的だ。瞑想するときには、自分の心身を念入りに観察し、自分の感情のすべてが絶え間なく沸き起こっては消えていくのを目の当たりにし、そうした感情を追い求めるのがいかに無意味かを悟るものとされている。
サピエンス全史 上下合本版 文明の構造と人類の幸福より

ああ、確かにそうだなぁと。ひとつの感情というのは、そう長く続くものではなく、例えば「怒り」という感情も、いつかはおさまる。再び「怒り」の感情が「沸き起こる」場合、それは「思い出して怒っている」つまり「思い出したことによる怒り」に分類されるもので、最初の「怒り」とは厳密には違う。最初の「怒り」はだいたいにおいて他者が引き金となった「怒り」で、2度目からは自分の記憶、思い出したことが引き金になる「怒り」と言える。「怒り」は、自分が傷つけられた(あるいは軽んじられた)ことによる怒りであることが多いのではないだろうか。


最近は、よく「つらい」という感情について考えるのだけれど、この「つらい」という感情も一時的な一過性のものでありながら、海の波のように、何度も引いては押し寄せる類(たぐい)のもので、なかなか凪(な)ぐ間がない。つらいということを意識すれば意識するほど、その沼にはまっていく。このつらさは、どうやったらなくなるのか、どうしたらつらさから解放されるのか、考えたりするのだけれど、今のところ、具体的な策は見当たらない。ただ「つらい」ことにこだわっている自分は、かなりシリアスモードで、自己憐憫、もしくは自罰的(もしくは他罰的)になっている場合が多いように思う。

感情の追及をやめると、心は緊張が解け、澄み渡り、満足する。喜びや怒り、退屈、情欲など、ありとあらゆる感情が現れては消えることを繰り返すが、特定の感情を渇愛するのをやめさえすれば、どんな感情もあるがままに受け入れられるようになる。ああだったかもしれない、こうだったかもしれないなどという空想をやめて、今この瞬間を生きることができるようになるのだ。
サピエンス全史 上下合本版 文明の構造と人類の幸福より


さまざまな感情、特に囚われている感情については、私は記憶に起因するものがほとんどだと思っている。
つらい出来事、つらい体験、そういったものが記憶としてしつこく居座り、感情を揺さぶる。悪い意味で揺さぶられ、翻弄され、困憊させられる。その記憶というのは、簡単には忘れられない記憶なのだと思う。はてさて困ったものだ。

仏教をはじめとする多くの伝統的な哲学や宗教では、幸せへのカギは真の自分を知る、すなわち自分が本当は何者なのか、あるいは何であるのかを理解することだとされる。たいていの人は、自分の感情や思考、好き嫌いと自分自身を混同している。彼らは怒りを感じると、「私は怒っている。これは私の怒りだ」と考える。その結果、ある種の感情を避け、ある種の感情を追い求めることに人生を費やす。感情は自分とは別のもので、特定の感情を執拗に追い求めても、不幸にとらわれるだけであることに、彼らはけっして気づかない。
サピエンス全史 上下合本版 文明の構造と人類の幸福より

なるほど、「感情は自分とは別のもの」これを読んで、目から鱗が落ちた。
感情は感情にすぎない
感情に振り回されたくないと常々思っていたけれど、感情は一時的一過性のものなのだから、そう執拗にこだわらなくていいのではないか。怒りは怒り。怒らないというのはなかなか難しいことだろう。怒ってもいいけど、囚われない。振り回されない。感情が消えていくのを待つ。心が穏やかに凪ぐ時間を持つようにする。それが瞑想と言われるものなのかもしれない。



読んだ本。でもまだ一度読んだくらいでは頭に入ってこない。
何度でも丁寧に読んでみようと思う。