「知ること」と「想像力」、そして「知らない世界」

タイトルにも書いたのだけれど、「知ること」と「想像力」、「知らない世界」について書いてみる。


本やネットやテレビなどのメディアから「知ること」は多い。
あるいは自分で実際に見たりや経験したりで、いろいろなことを知る。知るという行為は日常的な行為だ。
「知る」が「知った」「知っている」に変化したとしても、それら「知ったもの」「知っているもの」はすべてではない。
本やネットにもテレビにも自分の目にも映らない、自分で経験していないものがある。
それはいわゆる「知らない世界」になる。


本やネットやテレビで見る世界は、誰かがそれを見せたくて(見せるために)切り取った意図的なものだ。恣意(しい)的なものと言ってもいい。
切り取られた世界は、本当にほんの、ごく一部にすぎない。


自分の目に映らないものは知ることができないし、したがって興味関心を持つこともないし、まして経験していないものについては、よくわからないので、想像のしようがない。なんとなくは想像できても、それは想像でしかなく、実際とは異なるだろう。想像と現実(実際)とは必ずといっていいほど差異、ズレがあるものだ。


「想像力」には限界がある。どれだけ想像の翼を広げたとしても、「知らない世界」を「知っている世界」にすることはできない。


では、「想像力」は意味がないのか。
そんなことはないだろう。


「想像力」はよくも悪くも、自分の心に影響を及ぼす。自分で想像し、楽しくなることもあるし、自分で自分の首を絞めることもある。悲観的な想像というやつだ。悲観的な想像は、マイナスに捉(とら)えられがちだけれど、そうではなく、危険の想定ができるということ、そうならないためにはどうしたらいいかという考えをめぐらすことができると捉えれば、必ずしもマイナスではないだろう。


この本は私が悲観についての見方を変える本になった。


この世界にあるものすべてを知ることはできない。必ず知らない世界がある。「無知の知」ということばもある。


まだまだ知らないことがある。それは「知る」楽しみが残っているということでもある。
知ることは楽しい。そして想像することも。
でも想像を「暴走させる」ことだけは気をつけたい。


長くなったので、このへんで。