想像力が生む不安

komoko.hatenablog.com
↑で書いたものの続きなのだけれど、
ここで私は「想像力が乏しい」と書いたのだけれど、うーん、一概にそうも言えない気もしてきた。


「他者に関する想像力が乏しい」が正確な表現で、自分については、物凄いレベルで想像する。
特に未来、これからについて想像する。想像し過ぎて、不安になる。怖くなる。
まだ現実にそうなっているわけではないのに、もしかしたらそうなるかもしれないという想像で自分を怯えさせている。
我ながら間抜けだなぁと思うのだけれど、いろいろと想像してしまうということは想像力は、まぁそこそこあるのかもしれない。


もちろん、自分の想像力で救われたこともある。過去、小説(ラノベ)を書いていたことがあるのだけれど、それは自分の想像力の産物だ。想像し、言葉を紡ぎ、文章を織っていくのは楽しい作業だ。自分で自分を救う作業を長い間してきた。


今そういった創作活動をしていないのは、自分の想像力の限界を感じたからで、言い換えれば自分の想像力の平凡さに呆れて筆を置いてしまった(書くのを止めてしまった)ということかもしれない。


たくさんインプットすれば、想像力の幅が広がるのか。確かにそれもあるかもしれない。インプットしてインプットして、それが独創的なアウトプットにつながるかといえば、必ずしもそうではなく、誰かが書いたことの「二番煎じ」にすぎなかったり、自己顕示欲を満たすために書いているにすぎなかったり……。


自己顕示欲も承認欲求もそれ自体は悪いことではなくて、自己有用感とか自己肯定感とか、それは必要なものであるように思う。ただ、私の場合、小説を書くこと、それだけに限定するのは、ちょっと怖い、リスキーだと思ったわけで。書くこと以外にできること探しの旅に出て、現在に至っている。クエストはまだまだ続いている。なかなかゴールにたどり着けない迷子になっているとも言える。
勿論、一つのことに打ち込むというのは悪いことではなく、打ち込めるものがあるというのは良いことだ。


話がそれたので戻そう。
想像しすぎて、不安になってしまう。
「もし~たら……」と。
想像力して悲観的になってしまうので、そこを逆手に取るようにした。
つまり、想像した状態にならないためにはどうしたらいいのか考える。
先手必勝的なことが好きだというのもある。
何もせず手をこまねいている、傍観しているよりは、なにか手を打つ。
とりあえず何かやってみる的なスタンスは昔から変わらないように思う。


そして、何かやってみるにあたり、まずは情報(知識)集めから始めるのはセオリーといえばセオリーかもしれない。


無知が不安を増幅させることもあるので、知ることを疎かにしてはいけないなぁと。


「想像を超えた」という表現があるけれど、なるほど、想像というのは常に超える可能性があるもので、自分の想像なんてたかが知れてる、自分の想像がいつも正しいとか唯一だとか思わないことだな、と。


長くなってしまったので今日はこのへんで。
ストックがあればPM9時に予約投稿されます。
ストックがなければ更新されません。あしからず。