知識と想像力

「本を読むのが好き」と言っても、読む本に偏りがあって、うーん、これって良いことではないな、と。
本から得られる知識、その知識の偏り。偏り……うーん、なんというか、頭を抱えてしまう。


偏った知識をどうにかしたほうがいいと思う一方で、その偏りは専門性がある偏り(よく言えば専門的な深みがある知識)ということもできる。(自分を正当化するというか自己保全ぽいこと書いているなぁと我ながら思うのだが)


まぁ偏った知識は仕方がないとして、その偏っている(専門的)知識を果たしてどれほど生かせているのかな、と。
知識はあっても想像力がなくて、ただ持っているだけにすぎないんじゃないかと。


私の場合、まったく想像力がないわけではないけれど、想像力が乏しいというか、うん、まぁ、そういうことなんだと思う。


「相手の立場に立って考える」とか「相手が考えることを想像する」というが実は苦手で、苦手ゆえになかなかしようとしない。
自分とは違う相手の考えることを想像する。そうすると感じるもの、考えることがおのずと出てくるわけで。(いや、なかなか出てこない人がここにいるわけなんだが)


まぁ、自分のことはあれこれ考える(想像する)癖に、他者の考えることは想像できない……というか想像するのが苦手、難しい。


ちょっと話がそれるけれど、
「自分の苦手を認める」というのは、なかなかできないことだったりする。ついつい見て見ないふりしてしまうというか……。
逆に自分の苦手に焦点を当てすぎて、そのことばかり考えて憂鬱になって、そのうち無気力になる。どうせ自分なんて……と。
苦手なことを考えすぎるのはよくない。


一方で、苦手であっても、どうにかなるんじゃないか、どうにかできるんじゃないかと期待してしまうところから葛藤、悩みは生まれるように思う。
自分への期待。
他者や他のものへの期待をすることも多いのだけれど、それ以上に自分に期待して、負荷をかけていることが本当に多い。
諦めようにも諦められないことは意外と多くて、「諦める」というのにnegativeなイメージがつきまとうせいで、「諦めちゃダメだ」的な路線が常設されてしまう。「諦めたらそこで試合終了」というのも否定するわけではないのだけれども。


話を戻して、
「相手が考えることを想像する」として、その想像が的外れだったりすることもあるので、その点を危惧する。
相手は相手であって、自分ではない。自分とは感じ方も考え方も違う。
自分がこういう風に感じるのだから、相手もこういう風に感じるにちがいないと思うのは、勝手な決めつけに他ならない。
これが私がいちばん嫌うところで、「こもこさん(私のこと)は〇〇だから、△△△だよね」と言われるのが何よりイヤだったりする。
この人は「こもこという人が書いた文章」でこういう風に「こもこという人」を定義するんだなぁと。
その想像はその人独自のものであって、それが必ずしも合っているわけではない。その想像を本人に向かって言うのは押しつけというか無粋というか失礼なんじゃないだろうか。


もちろん、読んだ感想は自由に持っていい。持っていいけれど、それはそれ。書き手は読み手を意識して、擬態して書いているので、「書いたもの」と「書いた人」はイコールではない。もう少し優しい言い方をすると「完全なイコールではない」と書いたほうがいいだろうか。


もう少し書きたいことがあるのだけれど、長くなってしまったので、今日はこのへんで。
続きはストックにあげておこう。
ストックがあれば、PM9時に予約投稿されます。ストックがなければ、更新されませんので、あしからず。