今年の目標:ストレスをためない

今年の抱負に平常心で平常運転と書いたのだけれど、
それプラス、今年はストレスをためないようにしたいな、と。


自分の過去記事を読んで思ったのは、
ああ、めちゃくちゃストレスをためてたんだなぁということ。


「うまくストレス解消できない」ということもしばしば言っていたのだけれど、
そもそも疲れすぎていると、どう対処していいかわからなくて、
とりあえず寝て、少しましになって、でもまた神経すり減らして、心身共に疲れて、その繰り返し。
これでは体がもたない。これまで倒れなかったのが不思議なくらいだ。
去年までの生活を続けたら、いつか倒れてしまうだろう。ストレスを甘くみないほうがいい。


だから、今年はストレスをためない。
あれこれ考えすぎない。
起こることを複雑に難しく考えすぎない。
日々やるべきことはシンプルに、疲れるようなことは極力しない。
余計なことはせず、休息する。
睡眠時間を確保する。(午後11時には寝るようにする)


音楽や香りがストレスを和らげてくれるんじゃないかというのも、
最近思い始めたところで、
本当にストレスフルなときは、音楽を聞く余裕もなくて、
ましてや好きな香り(いくつかアロマオイルを持っている)を嗅ぐなんてこともなくて、
これからは、疲れたときこそ、音楽や香りを活用しようかと。


そして、書くこと。
書いているあいだはフローな状態になれて、ストレスを忘れていられる。
文字による可視化は、脳内の整理になっているように思う。


このブログがそうなのだけれど、ここのところ、ずっと「書くこと」をしていなかった。
なので、うまく書けていないことも自覚している。
前より時間もかかるし、文章も拙く、書き直すことも多い。
でも、それが今の自分なのだから、まぁ仕方がない。
少しずつ書く感覚を思い出したい。



記憶による呪いについて

もうずっと前に耳にした言葉なのに深く突き刺さり、えぐりこみ、時間が経った今も、亡霊のように「言葉を聞いたシチュエーション」もろともまざまざと蘇ってくることがある。もうこれは呪いだと思う。記憶による呪い。繰り返し思い出してしまうつらい記憶は呪いだ。


亡霊のように蘇ってくる記憶にチェックをいれてDeleteできないところがもどかしく、それでいて、他のことは都合よく忘れてしまうこともあるので、つらい記憶も精神安定・防御機能でふるいをかけるように忘れてしまえるようにならないものか。


思い出さないようにする方法として、なにか他の事に集中するというのは、私がよくやっていることだ。それでも時折、なにかの拍子に思い出して、苦しくなるので、まだまだ呪われているなと思う。自分の脳にえぐりこんだ言葉に。


どうすれば、呪いは解けるのか、いまだにわからない。もしかしたら、ずっとわからないままかもしれない。
記憶を選択して消せないのだから、まぁ仕方がない。願わくば、夢の中にまで亡霊が現れないでほしい。
以前、眠るのが怖いことがあったのだけれど、それは悪夢を見るから。
眠ってしまったあと見る夢をコントロールすることはできなくて、ずいぶん苦しめられた。
こんな風に書いていると、今夜、夢の中にまだ亡霊が出てくるかもしれない。「簡単に忘れられると思うなよ」と。


記憶による呪いは、そう簡単には解けないかもしれない。解けなくても、頭の中で亡霊を飼っているとしても、生きている以上はacceptするしかないのかもしれない。


私に限らず、他にも頭の中に亡霊を飼っている人、つらい記憶に怯えている人がいるかもしれない。つらい記憶は、その人しかわからない。その人にしかわからないのだから、そっとしておくのが、いちばんよいと思う。



読書について

以前ほど他の人のブログを見ないのだけれど、
年末、読んだ本をまとめたブログ記事をいくつか読んで、少し反省した。本を読んでいる人は読んでいるのだなぁ。


私は、以前より本を読まなくなってる。
専門的な勉強の本は読むけれど、小説など昨年はほとんど読んでいない。


ああ、視野狭窄に陥っているなぁ。


あんなに本を読むのが好きだったのに、今は細かい字を読むのがめんどくさくなっている。
本を読み、思考するのが、億劫になっている。


これは、よくないんじゃないだろうか。


おそらく以前のように本を読むことはできないだろうけれど、少なくてもいいから、地道に本を読む習慣を復活させたい。
本はもちろん電子書籍でもいい。というか、最近は電子書籍のほうが、読むのが楽だ。


本自体手軽に手に入れられるようになったのに、読み始めるまでが、小高い丘のうえに鎮座していて、眺めては他のことをしてしまう。読みたいという欲求が砂浜のどこかに埋もれて隠れてしまっている。それを掘り起こそう。


これは「あれもこれもやりたい」という欲を持たないという今年の抱負に反するのかもしれないけれど、なにもしないでおくというのは土台無理なことで、やることを厳選して、その中のひとつを読書にしようかと。


アンチ整理術

アンチ整理術

アンチ整理術

アンチ整理術

今、読んでいる本。今年の一冊目。
読んでいると、この本もまた「森先生の安定した物言い」に安心感を持つのだけれど、私自身ブレない人が好きで、それでいて天邪鬼(あまのじゃく)な、普通とはちがうことを言って、それを論理的に証明してみせるその一連の流れをかっこいいと思ってしまう傾向があって、「他の人とちがってもいい」ということを再確認させてくれる森先生の本が毎日飲むコーヒーのように好きだ。



2020年の抱負

新年というのは、気持ちを新たに切り替える節目になるので、よいなと思う。
とはいえ、まだ年が変わったという実感はなくて、そもそもまだ令和というのにも慣れていなくて、普段は西暦を使って書いたり言ったりしている。今年は2020年で、ああ、もう2020年、オリンピックの年になったのか、というのが第一印象。2020年なんてまだまだ先だと思っていたのに。


休みの日も目が覚める時間はだいたい決まっていて、体が習慣で覚えているのだと思う。アラームはかけているけれど、いつもアラームの前に目が覚めてしまう。そして、いつものようにお湯を沸かし、元旦(がんたん)と元日(がんじつ)のちがいは何だったかななどと、つらつらと思いながら、コーヒーを飲んだ。


テレビで、富士山に上る初日の出を見る。
そして、その初日の出を見ようと、スマホやカメラで撮影しようと現地に行っている人が大勢いることを知る。
昨晩は、除夜の鐘をリアルで何年も聞いていないことに気づいて、じゃあいつものようにテレビで除夜の鐘を聞いて、それから寝ようと思ったのだけれど、結局、テレビを見ないまま寝てしまった。テレビをつけていないと静かでよい。今年はテレビを極力つけないようにしようかな。


さて、今年は、というか「今年も」忙しくなりそうなので、心がけたいのは「平常心」。落ち着いて、淡々と、段取りよく。
特に「段取りよく」というのは、時短にもなるし、時短になれば、時間も生まれるので、それは心の余裕になる。時間があれば体を休めることもできる。
「あれもこれもやりたい」という欲は今年は持たないようにして、「平常心」で平常運転。
「平常運転しながら、日々思ったことを日記的に書いていこう」というのを今年の抱負にしようかな。



2019年の終わりに

気がついたら、2019年も終わろうとしていて、この1年何をしていたのか振り返ると、
「仕事ばかりしていた」。これに尽きる気がする。
あとは、勉強(英語などではなく仕事に関する専門的な勉強)。これも本当によくやったと思う。
時間があれば用語集や問題集、参考書を開き、いつもこの3つのどれかを持ち歩くようにしていた。


悔しさとかコンプレックスというのは、バネになると思う。
登っていた梯子(はしご)を外された悔しさ。学歴のコンプレックス。
学歴なんて関係なく働ければいいのだけれど、そうも言ってられないのが、今の日本の現実で、少なくとも私は学歴で値踏みされ、悔しい思いをした。最近は年齢で値踏みされることも多くなった。若いほうがよいとする文化は、まだ根強く残っているようだ。(職種にもよるだろうが)


まぁ、不利になることが増えていくなかで、自分ではよく健闘していると思っている。2019年最後の日、この1年間の自分の健闘を称(たた)えたい。


大人になると、褒められることがほとんど皆無になる。だから、自分で自分を褒めようと思う。
「私なんて」と自己卑下することが多かったのだけれど、そんな「私」でも、まぁよくやっている。


ただ、少し疲れてきているかもしれない。
うまく息抜きができなくて、笑うこともほとんどなくて、不安になったり、苛々したり。


だから、平常心。
来年の抱負を、今もう書いてしまうのなら、ひとこと「平常心」だ。
詳しくは年が変わってから、書くことにしよう。



目標、ゴールを設定すると面白くなる。

最近思ったのは、主に仕事で自分で設定した目標やゴールがあると、張り合いがでて、面白くなるということだ。


まぁ、その目標が無謀、無理だったりすると、結局達成できずに凹むのだけれど、
でも目標に向かっている間は、面白くて、ポイントは、「自分で設定した目標」だということ。
これが、「誰かに言われた目標」だと素直に迎合できなくて、自分の裁量や自由度がある仕事がないとダメだ。
もちろん、マニュアル的なものも、必要に応じて従うし、そのとおりにすることもできる。
でも、すぐに飽きてしまう。同じことの繰り返しが苦手で、次々と新しい目標を立てていくほうが、わたしには向いていると思う。


そんな風に思えるようになったのも、やはりいくつもの仕事を経験した(転職した)からなのだと思う。


転職するなら、若いうちに。
それは今でも思う。


過去、毎日のように泣きながら車で通勤してたことがあったのだけれど、あれは、やはり仕事が自分に合っていなくて、苦しかったのだと思う。当時はどうして泣くのか、よくわかっていなかったのだけれど、今なら、わかる。思い切って転職したのは、正解だったのだと思う。


さて、目標、ゴールを設定すると面白くなるというものの、プレッシャーとかストレスがないわけではない。
「自分で設定した目標にプレッシャーとかストレスとかあるものなの?」
そういうツッコミも聞こえてきそうだけれど、目標がたびたび達成されないのは自分の実力のなさなのか、それとも何か他に原因があるのか、もしかしたら何か他のやり方で、うまくやれたのではないか等々、あれこれ考えてグルグルしてしまう。


もちろん、目標が達成されればうれしい。うれしいけれど、そのうれしさは「つかのま」だったりする。仕事は続く。まだまだ続く。また次の目標に向かって、動きださなければ。


この動き出すまえの、あれこれ策を練る時間が、実はとても好きで楽しかったりする。
ふとアイデアが浮かんだり、こうしたらもっとよくなるんじゃないかという改善策を思いついたり。


改善という言葉が好きだ。


目標、ゴールを設定すると面白くなる。面白くなるけれど、のめりこみすぎて、燃え尽きないようにしたい。



過去記事から感じたこと

実は、この前更新した記事がこのブログの2400個目の記事だった。
自分の過去記事はめったに読まないのだけれど、記事数という数字にはこだわっている自分に気づいて驚いた。
2400。
これは、およそ11年間で書いた記事数だけれど、これは、多いのか、多くないのか。


365×11=4015
11年というのは約4015日。(うるう年もあるので、約4015日)
4015日のうちの2400。


よくまぁ書いたものだ。


過去記事には、過去の自分がいて、今あらためて時を経て見ると、今の自分と違っていて、面白い。
とはいえ、「過去(昔)がよかった」とは簡単には言えなくて、よいこともあったけれど、よくないことも多かったなぁと。


ブログを書くことで「得たもの」と「失ったもの」は、「失ったもの」のほうが多いかもしれない。
というのも、得たものは、永遠に手にしていられるわけではなく、実際は「得たものを失い、残ったのは喪失感だけ」だったりする。


残った喪失感を抱えたまま、ブログを更新することはつらい作業だ。
「たかがブログ」と片付けられないほど、のめりこみ、ブログに時間を費やしてきた。
さまざまなものを得、時は流れ、失くしていった。
その喪失感は、いつ癒えるかもわからず、もうこの際「癒えないままでもいいのではないか」と、そんな風にも思えてくる。


「癒えないままでもいい」というのは、決して投げやりなどではなく、
喪失感を感じながらも、なんとか立っている自分を少し誇らしくも思うし、しかしながら、
失ったものの大きさを考えると、すんなりと癒えてはいけないような気がして、
喪失感とともにこのブログを続けていくのも、一過程として実験的で面白いかな、と。


自分の過去記事を読んで、感じるのは「喪失感」ばかりだ。
今はもう「ないもの」が、なんと多いことか。


それら「ないもの」を再確認するのは、つらいことだ。
でも、その再確認が人を強くするのではないか。ポジティブに考えるのなら、そうも考えることができる。


今はまだ再確認しただけで、先のことはわからない。


ただ「もうないもの」を数えるよりは、「まだあるもの」を見ていたほうが、精神的に楽なのではないか。