悔しさと後悔で打ちのめされたとしても

タイトルからして、身構えてしまいそうなタイトルだ。
でも、まぁ1000字くらい書いてしまったので、アップしてみる。
ここに書いてあるのは、真夜中の「個人的なつぶやき」だ。


わたしという人は、人あたりのよさや順応性の高さのおかげで、わりと器用に生きているように見られるらしい。
いやはや、器用とかとんでもない。人あたり?順応性?いつも必死だ。
実際のわたしは、完璧を求める頑固さで、神経をとがらせて、見えないところで、あがき、もがいている。
そして、具体的にここでは書けないけれど、悔しさや後悔をずっと抱えていて、
自分の中にこの悔しさや後悔の問題は、いつまで経っても解決できないものとして鎮座している。


誰しも、ひとつやふたつ、あるいはそれ以上の悔しさや後悔といったものを抱えているものなのかもしれない。


悔しさをバネに、がんばるけれど、がんばるだけ、努力するだけではどうしようもないこともあって、
それでもあきらめられないでいるわたしは我ながら頑固者だと思う。


過去にこだわるのではなく、どうせこだわるのなら、今できること、これからできそうなことにこだわったほうがいい。


このブログを続けているのも、私にできることのひとつだからだ。
ブログを書いていて、つらいこともあったけれど、
それも過去のこと。
「過去は生ゴミ、そのうち肥料になる」みたいなことを過去記事で書いた気がする(うろ覚え)。


自分の中の悔しさや後悔がいつ解消されるのか、今は見当もつかない。
もしかしたら、ずっと解消されないかもしれない。
それはそれで運命と受け入れるしかないのかもしれないし、
自分の力でなんでもどうにでもなると思うことこそ驕(おご)りだと、傲慢(ごうまん)だと、
往復ビンタで目を覚ましたほうがいい。(今、自分に言い聞かせている)


悔しさと後悔で打ちのめされたとしても、
それでおしまいじゃない。


今できることをして、これからできそうなこと、やってみたいことがあるから、だからおしまいじゃない。

やってみたいことがあるというのは、生きる意欲につながるんだなと思いつつ、
今日はこのへんで。




的確、簡潔な言語化と相手の理解について

気がつくと、もう9月。
8月は、不調でブログは書けずじまい。
書けないときは、書けないものだ。


さて、今週、「頭がいい人」というのは、実に簡潔にこちらが知りたいことを説明してくれるのだな、と思うことがあった。


その人はわたしが知りたいことを的確に把握して、
なにが問題かをはっきり言語化してくれて、
どうしたらいいか簡潔に示してくれて、久しぶりに感情が揺さぶられた。その人に感動したと言ってもいい。


わからなかったことがわかった(理解できた)瞬間というのは、なかなか開けられなかった瓶のふたを開けられたときのようにうれしい。



もやもやと、何がどうなのか「わからないところがわからない」ということが往々にしてある。


「わたしのわからないところ」がわかる人、「ああ、多分ここでつまづいているんだろうな」と勘が働く人、
その人をわたしは「頭がいい人」だと思う。(あくまでもわたしの定義だ)



逆に「これくらいわかっているでしょ。わかっているよね」感を醸(かも)している人は、その人も頭はよいのかもしれないけれど、質問しづらいし、上から目線で説明されそうで、いやだ。



相手の理解力のレベルは本当にさまざまだ。
そこを見誤って、自分のレベルで説明を繰り広げたところで、うまくいかない、つまり、相手は理解できないということ。
相手がわかるように話す(説明する)というのは、当たり前のようでいて、なかなか難しい。


わたし自身、言語化することが苦手で、言いたいことがうまく言えず、相手に伝わらずもどかしいことが多々あって、的確に簡潔に言語化できる人に憧れる。


そして、的確に簡潔に言語化できるようになれば、相手に理解してもらいやすくなるのか、そのあたりも研究、考察してみたいところ。


今週はそんなことをつらつらと考えて、これは書いて残しておこうと思った。





「書くこと」をはじめる。

2020年は5月6月とブログを更新できなかった。
更新しないと、その更新しないほうがデフォになってしまう。


今年は本当にいろいろなことが上半期ありすぎて、
心身ともについていけなかったというのが本当のところ。


そして、これからのことを考えると不安に押し潰されそうになる。


「先のことなど、考えても時間の無駄」
そういうことを言っていた時もあったけれど、
でもやはり考えてしまう。


「考えることをやめ、成り行きにまかせる」
というやり方も有りなのだけれど、
実際のところ、「考えることをやめる」のはかなり難しい。
つい、考えてしまう。これからのことを。


考えて、考えて、なにかよい考えが浮かべばいいのだけれど、
なかなかそう浮かぶものでもなくて、
ふと、「書くこと」を思い立つ。
「書くこと」で脳内が整理されていく(すっきりしていく)というのは、
経験的に知っているので、
こうして「書くこと」をはじめている。


「考えることをやめる」のは「思考停止」というネガティブなイメージがあって、
躊躇してしまう。

ただ、今の状況(今の私の状況)で、闇雲に動き回るのは得策ではないと思うわけで、
様子を見ながら、その時その時できることをしていくしかないのかなと。


まぁ、いつもの結論が出たところで、
とりあえず安堵するのは、書いたからこそ得られたものだろう。


自分で自分を安堵させる術(すべ)は、私の場合「書くこと」なのかもしれない。
自己解決的(自己完結的)ではあるけれど、
不安に押し潰されしまうよりは、良いのではないか。


「書くこと」をはじめる。
久しぶりに書くのもいいものだ。



できたこと、やりたいことを書いていく

毎日つらい日々なのだけれど、
そうは言っても、どうしようもないものは、どうしようもないわけで、
自分でどうにもならないことで頭を悩ませて、ストレスをためてしまうよりも、
とりあえず今できることをしていこうかと。


同じようなことの繰り返しの毎日。
なので、書いて残すほどではないのだけれど、
それでも、アナログな日誌に記録するようにしている。
その日食べたものやその日見た映画のタイトルや
メールのやりとりメモ、仕事進捗など箇条書きで書いて残すようにしている。


そして、最近は「できたこと」をだいたい3つ、日誌に書いておくようにしている。
「今日は新しい料理〇〇を作った」「映画を字幕なしで見た」「20分ウォーキングした」とか。

それに加えて、次の日「やりたいこと」もこちらはひとつかふたつ、書くようにしている。
例えば、「ストレッチをする」「面白そうな漫画を探す(ネットで)」「〇〇の片付け(掃除)」とか。


これらを書くことで、少し落ち着いた気分になる。
寝る前のルーティンになりつつある「できたこと、やりたいことを書いていく」アナログ日誌をこれからも続けてみたい。




落ち着いた日常が一日も早く戻りますように

最近も書いた気がするけれど、わたし自身「淡々と飄々と」というスタイルが好きで、
ニュースや情報も必要最小限、見聞きするようにしているのだけれど、
それでも、ストレスは溜まっていく一方で、
とにかく夢見が悪い。
夢の中で必死になっている自分がいて、
それを目が覚めてからも覚えていたりするので、本当にうんざりする。


日中、防御しているつもりでも、でもやっぱりストレスは溜まっているのだ。
これまで経験したことがないことだから、なおさら。


濡れた重い砂のライフジャケットを着て、泥水が流れる川を歩いている気分だ。
水は腰のあたりまで来ている。
川底に足は着いているけれど、砂地で流動的で歩きにくいことこのうえない。
これからもっと水が増えたらどうしよう、という不安がつきまとう。
不安がストレスとなり、また夢見が悪くなりそうで、
しかしながら「不安になるな」というのも無理だ。


不安なのは、わたしだけではない。
このご時世、不安なのは、みな同じだろう。


落ち着いた日常が
一日も早く戻りますように




大切なのは「どんなときも落ち着いていられるか」

大切なのは「どんなときも落ち着いていられるか」
タイトルに言いたいことを書いてしまったので、
これ以上書いたとして、蛇足になりかねないと思いつつ、一応書いてみる。


わたしはアナログで日誌をつけていて、それは日記よりもっと簡素なもので、
数行その日あったことを書き留めているだけのものなのだけれど、
去年(2019年)の4月は新元号が「令和」と発表されて、日本が「令和色」になっていたのだけれど、
令和発表の1年後「不要不急の外出は避けるように」とか「外出自粛」とか、そんな風になるなんて、
まぁ何が起こるかわからないもんだなぁというのが正直な感想。


連日のニュースを見たり聞いたり読んだりして、ひしひしと重苦しい気分になるのは、わたしだけではないはず。


なので、ニュースを見るのは必要最低限にしていいのではないかと。
あれこれ見たり聞いたり読んだりしたところで、特定の人の憶測ばかりが並んでいる場合もあったりで、
そういう憶測で自分の頭を複雑に悩ませるのは、よくない。憶測は憶測。事実ではない。


大切なのは「どんなときも落ち着いていられるか」ということで、
以前から書いているように、淡々と飄々としているのが好きなので、自分もそうありたいと。
情報に振り回されない。自分がやるべきことをやる。やりたかったことをやってみる。そんなスタンスがよいなと。


やりたかったことをやってみるということで、読みたかったけれど読んでいなかった本を読んでいる。
今読んでいるのは、

希望という名のアナログ日記

希望という名のアナログ日記

タイトルがいい。
日記とタイトルにあるけれど、なかはエッセイが主だ。短編小説がひとつ入っている。


エッセイなどを読むと、その日の出来事や自分が感じたこと考えたことを短くさらっと書けるようになりたいといつも思う。
短くと言っても、これがなかなか難しくて、わたしの場合1000字くらいにはなってしまうのだけれど。(この記事で約1160字)



時間があったら、やりたいこと(漫画一気読みなど)

気がつけば、もう3月も明日で終わり。
2月は全然ブログを書けなかった。
2月から3月にかけて、ブログどころではなかったな。いろいろありすぎて。


「時間があったら、やりたいこと」
考えてみた。
1.仕事に関する専門的な勉強。
2.英語をもう一度。
3.読みたかった本、漫画を読む。


1に関しては、仕事の幅を広げたいというのがあって、それで専門的な勉強を自分で。
いつまでも「その場足踏み」みたいな仕事は、精神的によくないなと。
時間があったら、というか、「時間がある今」勉強するチャンスだな、と。


2に関しては、特にリスニング。映画やドラマを字幕なしで見るようにしたい。

3に関しては、時間があったら、読みたいと思ってた本や漫画がいくつもあって、まずは、これ。

応天の門 1巻 (バンチコミックス)

応天の門 1巻 (バンチコミックス)

平安時代物というと、昔は『陰陽師』にハマっていたのだけど、応天の門』は
菅原道真の若いころ(文章生のころ)の話で、この漫画での性格(クールで、馴れ合い的なことを嫌っているところ)がわたし好みで、遣唐使として大陸に渡りたがっているところも、書物(本)好きなところも、よいなと。目標(道真で言えば遣唐使)を持っている人が好きで、その目標のために、ひたむきに、地道に、というのにわたしは弱い。また、わたしもそうありたいと思う。
話を戻して、『応天の門』は道真と在原業平、この二人が主人公で、まぁ対照的な二人がさまざまな怪事件難事件を解決していくのだけれど、そこには歴史的な背景も絡んできて、藤原氏や伴氏など、まぁ日本史に詳しくない私でも問題なく面白く読めて、一気に12巻まで、読んでしまった。


応天の門 2巻 (バンチコミックス)

応天の門 2巻 (バンチコミックス)

応天の門 3巻: バンチコミックス

応天の門 3巻: バンチコミックス

応天の門 4巻: バンチコミックス

応天の門 4巻: バンチコミックス

応天の門 5巻: バンチコミックス

応天の門 5巻: バンチコミックス

応天の門 6巻: バンチコミックス

応天の門 6巻: バンチコミックス

応天の門 7 (BUNCH COMICS)

応天の門 7 (BUNCH COMICS)

  • 作者:灰原 薬
  • 発売日: 2017/06/09
  • メディア: コミック
応天の門 8 (BUNCH COMICS)

応天の門 8 (BUNCH COMICS)

  • 作者:灰原 薬
  • 発売日: 2017/12/09
  • メディア: コミック
応天の門 9 (BUNCH COMICS)

応天の門 9 (BUNCH COMICS)

  • 作者:灰原 薬
  • 発売日: 2018/07/09
  • メディア: コミック
応天の門 (10) (BUNCH COMICS)

応天の門 (10) (BUNCH COMICS)

  • 作者:灰原 薬
  • 発売日: 2018/12/07
  • メディア: コミック
応天の門 11 (BUNCH COMICS)

応天の門 11 (BUNCH COMICS)

  • 作者:灰原 薬
  • 発売日: 2019/07/09
  • メディア: コミック
応天の門 12巻: バンチコミックス

応天の門 12巻: バンチコミックス


応天の門』まだまだ謎がいっぱいで、これからも道真と業平はいろいろな怪事件に巻き込まれていくんだろうなと思うと、目が離せない。久々に続きを楽しみにしている漫画です。