レシピどおりに作ってみた

料理をするとき、
初めて作る料理でもないかぎり、
目分量で調味料を投入することが多い。
(味見は何度もする)


たまには、ちょっと変わったものを作ってみようと思い、
図書館で借りた料理本を見ながら、
レシピどおりに作ってみた。
材料の分量もレシピどおり。
調味料の分量もきちんと計量スプーンで計った!(おお!)
まちがえてはいないのに、
できた料理はおいしくなかった!!!


レシピどおりに作って、おいしくないとかどういうこと⁉


ふと『きのう何食べた?』に登場するタブチくんの彼女、千波さんを思い出してしまった。


どうおいしくなかったかというと、
味がうすくて、魚独特のくさみ(?)が抜けてなくて、
レシピには料理酒とかショウガをいれるとかそういう指示はなかったのだけれど、
もし、もう一度その料理にチャレンジするとしたら、料理酒やすりおろしショウガを入れる。
あと、しょうゆとかみりんとか調味料ももっと入れる。(ただしどれくらい入れたらいいかわからない)


料理本レシピどおりに作っても、おいしくできないこともあるんだな、とちょっとびっくりした。
鵜呑みキケンってことかな。



頭痛と睡眠の関係

朝起きた時から頭が痛くて、
ふと睡眠が足りていないせいではないかと考え始めた。


寝るのが遅かった日の翌朝、頭痛が起きることが多いことに気づいた。(あくまでも私の場合)


とにかく朝から頭が痛いのは困る。
頭が痛いと憂鬱だし、何もしたくない。


今年は、日付が変わる前、つまり深夜0時までには必ず寝るようにしようと思う。
できれば午後11時くらいがベストなのだけれど、
私は夜型なので、なかなか難しいかも。
とはいえ、お風呂に入る時間を早めたら、寝る時間も早くなるかもしれない。


お風呂に入る時間を早くするには、晩ごはんの時間を早くする必要がある。


さっそく今日から晩ごはんを早めにして、
お風呂も早めに入って、
早く寝るようにしよう。



お湯が出なくなった話

先日給湯器からお湯が出なくなった。
浴槽にお湯をためようとしたところ、途中からエラー(3桁の数字)が出て、お湯が出てこない。


故障だったら困るなあと思いつつ、なんのエラーか給湯器の取扱説明書で調べてみようとした。
ところがその取扱説明書が見当たらない。
数年前に給湯器を新しくしたので、確かにその時に取扱説明書をもらい、
取扱説明書は棚の同じところにだいたいまとめているので、
そこにあるはず。なのに、ない。



はてさて、どうしよう。


正常なら、お湯の設定温度が画面に表示されるのに、
今は無常に3桁の番号が点滅するのみ。


給湯器の本体は外にあるので、凍結とか水の流れが悪くなっているとか、多分そういうことだろうと予想された。
では、その場合、どうしたらいいのか。
外が寒い間は使えないということか!!!!!
昼間、気温が上がれば使えるようになるということか⁈
それでは、夜お風呂に入れないではないか。
寒い冬の間の一番の楽しみは、温かいお風呂に入ることだというのに、
あんまりだ!!!!!!


取扱説明書が見当たらない。
では、どうしたらいいか。


ネットだ。
ググれば、いいんだ。
エラー番号や給湯器の機種で検索をすれば、
なにかしら、ヒントが見つかるかもしれない。


検索してみた。


ヒントどころか、答えが、給湯器メーカーのサイトに載っていて、
どうしたらいいか、わかった。
やった!よかった!
ビバ、いんたーねっつ!


後日取扱説明書も見つかったのだけれど(行方不明なままにしておきたくなくて探した)
それほど詳しいことは書いてなかった。あああああ(天を仰ぎながら)
ネットのほうが詳しかった。
ビバ、いんたーねっつ!



アガサ・クリスティーを英語で読む

以前から挑戦したかったことに挑戦している。
それは、ミステリーを英語で読むということ。
以前は大きな書店に行ったとき、ペーパーバックを買って読むということをしていたけれど、
最近はkindleで洋書もさくっと手に入るので、本当に良い時代になった。


「洋書を読むなんて難しそう」と思う人もいるかもしれない。
確かに、よくわからない単語も出てくるし、日本語で読むより時間がかかる。
なので、一応訳されたものも手元に置いておくことにした。

今回は、すでに一度読んだことがある作品にした。
一度読んだことがある作品だと、登場人物もだいたいわかっているし、
話の筋も頭の中に入っている。それでも、英語で読むというのは、なかなかたいへんだ。
それでも英語で読もうというのは、
アガサ・クリスティーがどういう風に英語で書いているか知りたかった」という気持ちが強いからに他ならない。
時間がかかってもいいから、丁寧に英語を大量に読んでみたいと、翻訳された日本語版に助けられながら読み進めている。


そして、今English Editionを読みながら、これを日本語にうまく訳すというのは、本当にたいへんだなぁ、すごいなぁとそう思うわけで。

しばらく英語の海をのんびり泳ぐことにしよう。



痛みを意識をする、誰か(何か)を意識する話

寝ていて、頭が痛くて目が覚めることがある。
それが頻繁に続いたので、病院で検査してもらって、通院したりした。


頭痛とか体のどこかの痛みというのは、
それを意識し始めたとたんに、
さらに痛みを感じるようになるのは、私だけだろうか。



つまり痛みを意識する(フォーカスする)と余計に痛みが際立つというか、
痛いという現象が頭から離れられなくなる。
「痛い」ということばかり考えてしまう。


肩こりもそうかもしれない。
肩がこったなぁと感じ始めた(意識し始めた)とたん、
肩こりをどうにかしたいと、そっちに意識が持っていかれてしまう。


逆に痛かったけれど、
他の事に集中して、いつのまにか痛みのことを忘れて(感じなくなって?)いる場合もある。



以前、働いていた職場で、どうにも合わない、ひとことで言えば「性格がきつい」上司がいて、
毎日顔を合わせるのが本当に嫌で嫌で、
その上司を意識すればするほど憂鬱になって、仕事に行きたくなくて、毎朝泣いていた。
そうするうちに、その上司が人事異動になって、新しい上司が来た。
新しい上司は、穏やかな人だった。
性格的にどうにも合わなかった上司とは、まぁ1か月に1回顔を合わせるくらいの関係になって、本当にほっとした。
それでも、1か月に1回くらい顔を合わるときは、その元上司を意識し、元上司から過去いろいろ言われたことを思い出して、勝手に憂鬱になっていた。


意識する、誰か(何か)を意識するということは、
自分自身にかなり影響を及ぼすことなのかもしれない。


最近では、部屋の寒さが気になって、つまり意識してしまって、家にいる間、寒いことばかり考えてしまう。


何かに意識が集中してしまうと、他のことを考えられなかったり、他のことができなかったりするので、要注意だ。


もっとも、なんにも意識することなく、1日を過ごすことは無理だろうから、
とりあえず、リラックスして、心地よく過ごすこと、そちらに意識を向けるようにしたい。



働くとか幸福とか価値とか貢献とか、それらについて文章にすることは、なかなか難しい。

読んだ本『人生は苦である、でも死んではいけない』(岸見一郎)


この本の中に『働くこと自体が目的ではなく、幸福であるために働くのである』とあって、
まさにそうだなと思って、そのことについては、またあらためて書きたいと昨日書いたのだけれど、
このブログで「あらためて書きたい」と書いて実際に書いた試しがない(おそらく)ので、そろそろ本当に書いてみようと思う。(まじで?)


『働くこと自体が目的ではなく、幸福であるために働くのである』という一文。
久しぶりに「そうだ」と納得する一文だ。



私の場合、仕事をしている間、かなり「気」を張っている。
神経を使っているといってもいい。
それが年末年始、仕事をしていなくて、「気」が抜けてしまうと、
次は「不安」が押し寄せてきて、どうしようもなくなってしまう自分がいる。
この「不安」はどういう「不安」なのか表現するのは難しい。


休みの時くらいのんびりしたらいいのだけれど、
のんびりしていいのか躊躇する自分がいて、
こう書くとワーカホリックなのかもしれないけれど、
仕事をしているときのほうが、安心する。
もちろんストレスも溜まるのだけれど、
それでも、仕事がなかった頃を思えば、
不採用が続いた頃を思えば、
多少のストレスは仕方がない。


上記一文にあったように
『幸福であるために働く』
自分のためだけでなく、家族の、周りの、仕事に関わる人すべてのために、できることをやる。
こんな自分でもできることがある。
それがうれしい。
だから働き続けられるのかもしれない。


逆に働いていなければ、幸福ではないのか、という問いも生まれるけれど、
これについては、働いていなくても、幸せだとその人がそう思えばそうであるし、
要は、その人の考え方、感じ方次第なのではないかと。


人の幸不幸は、他者から見て本当のところはわからない。
「幸せ」そうに見えるだけで、実際のところは、わからない。
勝手に「幸せ」だと、他者が決めつけているだけのこともある。
不幸な部分は表には見せたがらない、隠したがるものだ。ゆえに「不幸な部分は見えない」から幸せそうに見えるだけかもしれない。


話を戻して、
働くことで、自分ができることを確認できるというのはあると思う。
貢献感が安心感を引き寄せるのかもしれない。


この本の中で

働いている人もそうでない人も、生きているという点では同じであり、生きているだけで他者に貢献できるーそう感じられる時、誰もが自分に価値があると感じることができるだろう。
人生は苦である、でも死んではいけない (講談社現代新書)』より

とある。
自分に価値があると感じること、これは生きる上で必要なことで、でもまぁ、価値を決める基準や価値観なんて人それぞれ違うし、価値があろうとなかろうと、生きてる。それでいいと思う。他者への貢献ができればそれにこしたことはないけれど、でもそれがすべてじゃないと思うのだけれど、貢献とは一体何なのだろう。貢献は、誰かに強制されたり、自分からアピールするようなものでもないし、なかなか扱いにくい言葉だったりする。


働くとか幸福とか価値とか貢献とか、それらについて文章にすることは、なかなか難しい。
ヘビィで首から背中からガチガチに重く硬く締めつけられるようだ。
このブログで「あらためて書きたい」と書いて実際に書いた試しがない、その通例を打ち砕きたくて書いてみたけれど、
自分が石化するとは思いもよらなかった。精神的消耗も相当なもので、こういう場合、すぐに他のことをしたほうがいい。
考えること書くことは楽しい。でも、それだけじゃなく副作用もあることを思い出したところだ。



読んだ本『人生は苦である、でも死んではいけない』

読んだ本『人生は苦である、でも死んではいけない』(岸見一郎)

人生を過去・現在・未来という直線として見るのではなく、
「今ここ」を生きたい。
誰もが必ず死ぬとしても、死は人生の目的地ではないのだから。

そうするためには、一つには、過去を手放すことが必要だ。
忘れることができない、また、忘れてはいけない過去があっても、
生きるためにはあえて過去を手放さなければならない。
過去に戻って人生をやり直さなければ―実際、そのようなことはできない―
今後も生きづらいと思いながら生きるしかない。しかし、過去を手放せば、
いつからでも人生をやり直すことができる。
人生は苦である、でも死んではいけない (講談社現代新書)』より


本を読んで、
過去を手放し、ありのまま、今の自分でOK。
そんなことをつらつらと思ったのだけれど、
その過去を手放すのいうのが、本当に難しい。


私はよく「記憶」という言葉を使うのだけれど、
この「記憶」というのは、まぁ役に立つこともあるけれど、
「記憶」に苦しめられることも多い。
Deliteできない「記憶」が、つらさの根源であることが多い。

忘れることができない、また、忘れてはいけない過去があっても、
生きるためにはあえて過去を手放さなければならない。
人生は苦である、でも死んではいけない (講談社現代新書)』より

生きるためにあえて過去を手放す
生きるために忘れる。
生きるために忘れなければならない。
そう、忘れられるのであれば、忘れてしまいたい。
そう思っても、なかなか忘れらない「記憶」は、自分では解けない一種の「呪い」「呪縛」なのだと思う。

さらに、未来も手放さなればならない。
未来は「まだない」のではなく、ただ「ない」のである。
人生は筋書きが決まっている芝居やドラマではない。
存在しない未来を思って不安になっても仕方がない。


たとえ、これまでの人生がどれほどつらいものであっても、
これからの人生も同様につらいものになると決まっているわけではない。
もっとも楽になるとも決まってはいないが。
人生は苦もあれば楽もあるというよりは、苦なのだから。
それでも、生きる。
人生は苦である、でも死んではいけない (講談社現代新書)』より

『存在しない未来を思って不安になっても仕方がない。』とはいえ、
ある程度の想像力を持っている以上、不安にならないなんて、それはちょっと無理だ。少なくとも私は。


「まぁなんとかなる」と思いながらも、「なんとかならなかったらどうしよう」という自分もいて、最悪の事態を想像してしまう。
そして、その「最悪の事態にならないためにはどうしたらいいか」考えることで、やっと顔をあげていられる。
「最悪の事態を回避するためにできることがなにかあるはずだ」と、その「なにか」を考えるのは、存外楽しい。
考えること、それ自体が楽しくて、その考えたことを書くのが楽しい、好きということかもしれない。


自分の人生だから、自分が好きなことをしていいんだよ。
もっと気楽にしていい。
そう考えを転換(?)すると、
「記憶」の呪縛が少し弱まる気がする。
呪いが解けるほどではないけれど、とりあえず「記憶という呪い」による死から遠ざかれそうだ。


「記憶」をうまくDeliteできない(忘れられない)のであれば、
なんとかうまく折り合いをつけていくしかない。
そう、なんとか、なんとか。


この本の中に『働くこと自体が目的ではなく、幸福であるために働くのである』とあって、まさにそうだなと思ったわけで、
そのことについては、またあらためて書きたいかな。