ネットやニュースを見るのは朝と夜だけ

タイトルにあるように「ネットやニュースを見るのは朝と夜だけ」というのを始めてみた。しかも朝30分、夜30分に限ることにした。(ネットとニュース合わせて30分)


ネットやニュースを見る時間を減らし、他にやりたいこと、やらなければならないことをする、というやり方を続けてみようと思っている。
たぶん、ネットやニュースを見る時間を減らしても、特に困らないんじゃないかと思う。
もちろん必要があれば検索するし、メールも使う。メールのチェックも朝と夜だけ、としたいところだけれど、メールの場合そうもいかない。


このブログも8月に再開して、今日で3日目だけれど、一回あたりにかける時間は30分以内にしている。
以前は長文で時間もものすごくかけていたものだけれど、今現在「そんなに書く時間がない」というのと「長文は好まれない」というか、だいたいにおいて長文は最後まで読まれない運命をたどるものだというのを経験的に知っているので、それなら、ほどほどの文でいいのではないか、という自分なりの結論に達している。


30分で書きたいことを書いて残しておくスタンスで、充分かな、と。(十分ではなく充分)
物足りなければ、また次の記事で書けばいい。
ほどほどがよい。


0ではなく、1であることに意味があると思うし、その1は「ほどほど」でよい。


そんなわけで今日はこのへんで。


できるようになりたいことを地道にやってみる

あれこれ不安になってしまうのは、ネットやニュースを見すぎてしまうからだと思う。
ゆえに、ネットやニュースを見るのは必要最低限にすることにした。
この必要最低限というのは、もちろん個人差があって、自分でこれが必要最低限だと思えば、それでよい。(30分でも1時間でも2時間でも?)


時間があるとネットやニュースをチェックしてしまう。それをやめて、他のことをしようと思った。
「できるようになりたいことを地道にやってみる」というものだ。
例えば、ピアノやギターが弾けるようになるとか、スペイン語やイタリア語がわかるようになるとか(話せるようになる、と書くとだいぶハードルが高くなるので、日常会話なら、なんとなくわかるようになるくらいでOKとする)。
時間があるから、あれこれ考えてしまう。特に昔のことを。楽しかったことより、つらかったことのほうが、鮮明に思い出されてしまうから、不思議だ。


時間は有限。一生という時間は有限と言ったほうがいいだろうか。


映画を見るといった、受動的なことよりも、自分で何かをする能動的なことのほうが、不安の穴に落ちこまなくてよい。(私の場合)


ショートストーリーを書くというのもやってみたい。ショートストーリー(超短編小説)を書けるようになりたい。


というわけで、今日はこのへんで。






外に出るのが怖い

最近の状況から言って仕方ないことなのだけれど、外に出るのが怖い。人に会うのも怖い。


「マスクして距離をとっておけば大丈夫」とは言えなくて、(これも私が勝手にすりこまれていることなのかもしれないけれど)結果、外に出るのは必要最小限になる。


必要最小限になると、どういうことになるかというと、日々が同じことの繰り返しになる。それは安定しているという意味ではよいのだけれど、一方で、閉塞感を生む。閉塞感は心身ともに良い影響を及ぼすはずもなく、ぶっちゃけ息が詰まりそうである。そうは言っても、外に出るのが怖いという心理的な壁は無言で鎮座し続けていることは変わらない。


この心理的な壁をなんとか壊そうとか、そういうことはするつもりはない。怖いものは怖いのだ。
壁の一部、狭い戸から時折(必要に迫られて)抜け出して、いつものルートをたどって、また戻る、その繰り返しができているだけでも自分で自分を褒めてあげたい。


この状況下、できることをやるしかない。とはいえ、できることは限られていて、むしろ、どんどん制限されていく。
制限があるなかで、自分ができること、やりたいことは何か。およそ1日あれこれ逡巡したところで、たどり着いたのは「書いて残すこと」だった。


仕事以外で10年以上続けていることが何かあるかと聞かれれば、習い事も10年とかそんなに続いたことがないし、趣味にしても10年以上続けていると言えるものはない。唯一、このブログは10年以上続いていることに気づいて、また書いてみようかと。(あまり年数を気にするタイプではないのだけれど)


書くことで、頭の中に冷静さを取り戻せるというのはある。外に出るのが怖い今でも書くことはできる。閉塞感の中で書くものが一体どんなものなのか、それは自分でも想像ができない。でも、閉塞感や孤独感の中で書き残すものも、案外面白いのではないかと思う。とりあえず、書いて残すことが大事かと。




読んだ本『「不安」にならない練習』

自分が「固執化バグの影響が強い不安を繰り返す堂々めぐりタイプ」だというのは、この本を読んでほぼ確信した。

1つのことを考え続けることのできる、まじめな人といえそうです。
ただ、その真面目さがアダとなり、一度何かに悩みだすと、際限なくそれを考え続けてしまう(頭の中で堂々めぐりさせてしまう)傾向があるようです。また、何らかの対策を講じた場合も、真面目さゆえに、「これで十分なのか」「他にもできることはないか」などと考えてしまいがちで、これまた堂々めぐりを生むことになります。
一方、行動によって頭を切り替えることは得意でなく、ストレスをためてしまいがちです。「気晴らし」になることを自分で見つけてスッキリするとか、他人に相談し、不安感を軽減してもらうとか、自分なりのストレス対処の方法を持つことが必要そうです。
「不安」にならない練習』より

自分なりのストレス対処法がこれといってなかったりして困ることもしばしばだ。
いつもより多く寝ることくらいしかストレス対処法が思い浮かばなくて、でももしかしたら、「寝ること」は自分にとってはいちばんのストレス対処になっているのかもしれない。

この本のなかに

ワンポイント・アドバイス
不安を慢性化させないためには、新たな目標を自分に課すなど、自分の関心が他に向かうように仕向ける技術を持つことが必要です。第7章-07の練習をお勧めします。『「不安」にならない練習』より

とあって、この第7章-07を熟読。いやはや、目からウロコが落ちたというか、いや、なんとなくそうすればよいのはわかっていたような気もするけれど、忘却の彼方へホールインワンしてしまっていたというか。


どんなに対策を講じても、不安をゼロにすることはそう簡単なことではなく、いつでもどこでも、私たちは不安に襲われる可能性があります。心の中で「考えまい」と思っても、というか思えば思うほど、脳は「将来の脅威」に注意を向けさせ、そこから不安への道が再び始まるのです(固執化バグの強い人とは、こうした傾向の強い人といえます)。
この「悪しき状態」を抜け出す方法は、基本的には1つしかないと考えています。それは「行動する」ことです。
脳はそんなに器用ではなく、1つのことに関心が向くと、それ以外のものには関心がいかなくなるという性質を持っています。「行動する」とは、言い換えれば、「いまそこにある外の世界」に集中することであり、不安から脳の関心をそらすには、最適なのです。(実際、ずっと抱えていた不安やモヤモヤした気持ちが、忙しくしていたら霧散してしまったという経験は、誰でもあると思います。もしかすると、脳の不器用さと忘れっぽさが、最後にヒトを救うものなのかもしれません)。『「不安」にならない練習』より

行動する」ことで、頭が切り替えられるのなら、それはよいことだ。
堂々めぐりをしがちで、思考が泥沼化して、窒息しそうになることもあるので、それなら、なにか他のことをする、この本に書いてあるように「切り替え行動」をあらかじめ準備しておく、それで不安を回避できるのなら、やってみる価値は十分にあるのではないかと。

不安につながりやすい「心ここにあらずの状態(マインド・ワンダリング)」は、目先にやることがなく、目的意識が途切れた状態、いわば「空白状態」において発生しやすくなります。
このことを踏まえると、「不安への思考」を防ぐには、「いかにして空白状態を作らないか」がポイントということになります。
「空白状態」を作らないために、ここで用いる方法は、あらかじめ、いつでもどこでも取り組めるような目標を自分で用意しておき、「空白状態」が始まると同時に、目標達成のために必要な行動(切り替え行動)に移れるようにするというものです(目標達成と不安回避の両方が実現できるので、一石二鳥です)。
目標の内容は自由ですが、積極的に取り組めるものであるためには、自分の価値観に合致していて、自分で「楽しい」と思えることが理想です。『「不安」にならない練習』より

なるほど。「楽しい目標」を設定すればいいのか。
なにか目標に向かって動くことは、わたしが昔から好きなことのひとつで、その目標も難しいものではなく、「楽しい」と思えるものを目標として、いくつか設定して、そちらに目を向ければ、そちらに集中する(行動する)ことになるし、とりあえず不安で苦しくてどうしようもなくなる、という状態は減るのではないだろうか。


実は、この記事を書きながら不安は自分で自分を不安にさせているのだということにふと気がついた。これから先の、まだわからないことに対して、「もし~たらどうしよう」と悲観的になったり、まだ起こってもいないことに対して最低最悪の事態を何度も想像したり、そうやって自分で自分を不安にさせて、焦り、その「自分で自分を不安にさせるクセ(習慣)」をなかなか止められないでいた。


自分で自分を不安にさせるクセ(習慣)」はよくないクセ(習慣)を心底止めたいと思った。この本で止めるにはどうしたらいいのかを見つけることができたように思う。あとは実践してみるのみだ。


まったく「不安」にならないというのは無理なこと。
でも、たとえ不安になっても、水たまりを踏んでしまって、靴を少し濡らしてしまった程度でおさまるようになるかもしれない。多少靴が濡れてしまっても大丈夫。歩くのに問題はないと思えるようになるかもしれない。


自分でどうにかできることの限界

しばらく文章を書いていなかったので、今の私は5文字打つごとにフリーズしかけるPCのようだ。
なんとももどかしい。
書く感覚を取り戻したくて、今日も書いてみる。


今思っていること、考えていること、それは自由に動き、刻々と形を変える雲のようで、
明日には、今思っていることは微妙に、あるいはガラリと変わってしまっているかもしれない。
まぁそれはよくあることだ。
たとえ明日思っていることが変わってしまうとしても、自分のブログだし、書きたいことを書けばいい。


さて、タイトルにも書いたけれど「自分でどうにかできることの限界」について少し書いてみたい。
ここで書いたこととも関係するけれど、

「心配事の9割は起こらない」というのは本当だろうか。 - もっこもこっ

4か月ぶりに(?)ブログ更新しました。

2021/07/12 01:04

自分でどうにかできることには限界があって、
特にコロナ禍、うまくいかないことが多い。というか、多すぎる。
そもそもなんでも自分でどうにかできるというのはおこがましいというもので、
自分に対する過信というものだろう。
もっと謙虚になったほうがいい。
自分でどうにかできることに限界があるのは当たり前なのだ。


あれこれ心配し、考えたところで、どうにもならないものはどうにもならない。
つい焦って、あれこれと策を考えるけれど、どれも良策とは思えない。「いや、ちょ待てよ」と微妙に冷静な自分が一時停止ボタンを押して立ち止まらせようとする。
しばらく静観するという策の選択もありではないかと。

歳をとるとともに、
自分の思考がワンパターン化して呪縛状態になっているように思えてならない。
視野狭窄というか、新しいこと(もの)へ無関心というか、
それも日々の余裕のなさが元凶と言ってしまえばそこまでなのだけれど、
余裕のなさを理由に考えることをやめてしまいそうでこわい。


自分でできることには限界がある、無理なものは無理ということ。それを受け入れることで、自分に対してやっと寛容になれる気がしてきた。無理しなくていいんだよ、と。


「心配事の9割は起こらない」というのは本当だろうか。

「心配事の9割は起こらない」というのは本当だろうか。


元々あれこれと考えてしまう性格で、心配性と言ってもいい。
加えて、コロナ禍、自分の存在意義など考えてみたり、
どうにも楽観的になれない。


「今やれることをやる」それはわかっているのだけれど、
やったところで、成果というか手ごたえがない。思うような結果が出ないというか。


そして、しばらく文章を書いていなかったからか、言葉が出てこない。困った。


考えていることはあるのに、それを言葉に、文章にできない。
しばらく文を書く練習をしたほうがいいみたいだ。


「心配事の9割は起こらない」ということは残り1割は?
残り1割は起こるかもしれないということ?


心配事の1割が実際に起きてしまったとして、それはそのときに対処すればいいのだろうけれど、
自分ひとりで対処できそうになければ、誰かに助けを求めることになるだろう。
では、誰に?
誰に助けを求めたらいいのだろうか。
助けてくれそうな人に助けを求めたとして、それは迷惑をかけることになるのではないだろうか。
いつのころからか、いろいろな人に「迷惑をかけてはいけない」そう教えられてきた。
それは呪縛のようにしみついて、助けを求めることを躊躇させてしまう。結果、どうなるのか。


思い浮かんだ言葉はここには書かない。


ただ、今は「心配事の9割は起こらない」それを信じたい。
起こらなければ、杞憂で、ただの心配性の徒労で終わるのだから。






成熟とはなんだろう

仕事や人間関係、まぁわりと多くのことに言えると思うのだが、「こうあるべき」ということにこだわることから、様々なトラブルが起きるのだろうな、と。
自分の「こうあるべき」というのは、他の人にとっては、そうではないかもしれない。
他者の「こうあるべき」を押し付けられるのは嫌だし、わたしも「こうあるべき」を他者に押し付けないようにしたい。


白か黒かはっきり決められないこともあるのに、白か黒かはっきり決めることにこだわり、他者に強要し、関係が悪くなることもある。
グレー、曖昧、そういうことを許容できるようになるのは、なかなか難しいことなのかもしれない。
しかしながら、「グレーや曖昧という存在を認められるようになる=成熟しつつある」と言えるのではないだろうか。


成熟とはなんだろう。
グレーや曖昧を許容できるようになること?
自分の「こうあるべき」を他者に押し付けなくなること?
他者に迷惑をかけなくなること?
自分でなんでもできるようになること?


辞書で調べるのではなく、自分なりの「成熟」を知りたい。
とりあえず、「成熟=大人」ではないような気がする。


「精神的に安定すること」が「成熟すること」のような気もするし、そもそも「精神的に安定する」とはどういうことなんだろうと考えてしまう。


なかなか答えらしきものにたどり着きそうにないので、今日はこのへんで。