過去を振り返るよりも

過去、自分が書いたものを読み返すのは、味付けを間違えて、もう食べたくない料理を無理に食べるのに似ている。


「無理に食べなくて(読まなくて)いいよ」
と推しボイスで脳内再生してみる。(なに書いているんだ?)


当時はそれで「よい」と思って、アップしているわけだけれど、
しかしながら、ブログという媒体は、あとあとまでずっと残るところが良いところであり怖いところである。


もう何度書いたか覚えていないくらい(というか覚える気もないのだけれど)、私は自分の過去記事を読み返さないのだけれど、
まちがえて靴下を裏返しに履いてしまうことがあるように、ふと読み返すことがある。
そんな感じで読み返したあと、猛烈に日本からウルグアイの東、約1000km離れた大西洋に到達するまで穴を掘りたい気分になる。(掘らないけど、いや、そもそも掘れないけど)


当時はそれで「よい」と思ったのだから、もうそれでいいではないか。
こう開き直れるのは、年を取ったからだろう。


昔だったら、気に入らないところをいちいち修正していたかもしれない。


今は、いちいち修正することはない。
それは何故か。
そんな暇はないからだ。(そしてめんどくさい)


過去を振り返るよりも、これからのことを考えていたい。
まぁこれからのことを考えて、不安になったりもするのだけれど、
昨日も書いたように、
komoko.hatenablog.com
悲観的な想像は、フェールセーフとなるものを設定することができるので、必ずしもマイナスの悪いことではない。
つまり、故障や不具合、最低最悪のことが起きたとして、その際どうするか、ということを予め考えておく、これは大事なことだと思う。


一方で先のことばかり考えていると、目の前のことが疎(おろそ)かになるというのはある。
逆に、先のことを考えたくなくて、目の前に迫るものだけをとりあえずこなすということもある。
どちらも私には「あるある」だ。


結局、何を書きたいのか分からなくなってきた。
でもまぁ今日の記事をまとめると、
過去を振り返るよりも、これからのことを考えていたい。
ということなのかもしれない。


と、ここまで書いたら、
「過去から学ぶこともあるよ」
と推しボイスが脳内で囁いてきたけど、それについてはまた今度かな。



「知ること」と「想像力」、そして「知らない世界」

タイトルにも書いたのだけれど、「知ること」と「想像力」、「知らない世界」について書いてみる。


本やネットやテレビなどのメディアから「知ること」は多い。
あるいは自分で実際に見たりや経験したりで、いろいろなことを知る。知るという行為は日常的な行為だ。
「知る」が「知った」「知っている」に変化したとしても、それら「知ったもの」「知っているもの」はすべてではない。
本やネットにもテレビにも自分の目にも映らない、自分で経験していないものがある。
それはいわゆる「知らない世界」になる。


本やネットやテレビで見る世界は、誰かがそれを見せたくて(見せるために)切り取った意図的なものだ。恣意(しい)的なものと言ってもいい。
切り取られた世界は、本当にほんの、ごく一部にすぎない。


自分の目に映らないものは知ることができないし、したがって興味関心を持つこともないし、まして経験していないものについては、よくわからないので、想像のしようがない。なんとなくは想像できても、それは想像でしかなく、実際とは異なるだろう。想像と現実(実際)とは必ずといっていいほど差異、ズレがあるものだ。


「想像力」には限界がある。どれだけ想像の翼を広げたとしても、「知らない世界」を「知っている世界」にすることはできない。


では、「想像力」は意味がないのか。
そんなことはないだろう。


「想像力」はよくも悪くも、自分の心に影響を及ぼす。自分で想像し、楽しくなることもあるし、自分で自分の首を絞めることもある。悲観的な想像というやつだ。悲観的な想像は、マイナスに捉(とら)えられがちだけれど、そうではなく、危険の想定ができるということ、そうならないためにはどうしたらいいかという考えをめぐらすことができると捉えれば、必ずしもマイナスではないだろう。


この本は私が悲観についての見方を変える本になった。


この世界にあるものすべてを知ることはできない。必ず知らない世界がある。「無知の知」ということばもある。


まだまだ知らないことがある。それは「知る」楽しみが残っているということでもある。
知ることは楽しい。そして想像することも。
でも想像を「暴走させる」ことだけは気をつけたい。


長くなったので、このへんで。



「~なきゃ」を止(や)める

長月になった。


確か8月23日から唐突にブログを再開したように思う。
再開した理由は既に書いたような気がするので、もう書かない。


毎日というわけにはいかないけれど、しばらく書けるときに書こうと何となく思っている。


書けるときに書こうくらいのスタンスが楽だ。
「書かなきゃ」というのは嫌だ。
「書かなきゃ=書かなきゃいけない=書かなければいけない」
ということになるからだ。


仕事しなきゃ
このフレーズには溜息がもれなくついてきそうだ。眉間にシワもできているかもしれない。

他にも
読まなきゃ
調べなきゃ
買わなきゃ
掃除しなきゃ
(報告書)出さなきゃ
(早く)寝なきゃ
(早く)起きなきゃ
食べなきゃ
飲まなきゃ
……etc
これだけ書いているだけでもストレスが溜まる。
自分で書いて、自分でストレスを溜めているんだから、なんともやるせない。


「~なきゃ」と自分に強制するのが嫌なのだと思う。(他の人に「~なきゃ」と強制するのも嫌だが)


なので、「~なきゃ」は止(や)める方向で。
「~よう」のほうが、自発的でストレスも溜まらないかもしれない。(個人差はあるだろうが)


例えば
仕事しよう
読もう
調べよう
買おう
掃除しよう
(報告書)出そう
(早く)寝よう
(早く)起きよう
食べよう
飲もう


これらは自分に対しても他の人に対しても言うことができる。
「~よう」は、「~なきゃ」よりもマイルドでよいかもしれない。


というわけで、長くなってしまったので今日はこのへんで。


図書館は時間予約制にして本を借りられるようにしてほしい

緊急事態宣言やまん延防止等重点措置の実施期間中ということで、図書館が休館中というところも多いのではないだろうか。(緊急事態宣言やまん延防止等重点措置の実施期間は8月31日現在、令和3年9月12日までとのこと)


密になるから休館しているのだろうというのがまず頭に浮かぶが、それなら美容院等でやっているように、予約制で一度に入館できる人数を制限したらよいのではないだろうか。例えば30分単位で、映画館のように入れ替え制で、月に2回まで利用可など。
さきほども書いたが、図書館利用者ナンバーを使って事前予約制にして、入館の際は、図書館利用者カードを提示することで本人確認も取れるように思う。
前もって予約しておけば、借りていた本も返せるし、また30分あれば新たに本を借りることもできる。
私が住んでいる地域では、まったく利用できない状態が続いていて残念でならない。


私は詳しくないのだが、Web上のそういうシステムを作るのは難しいのだろうか。いや、美容院等でそういう予約システムはあるわけだし、それを図書館もならって作ることは可能だろう。


特に調べてはいないのだけれど、もしかしたら、もう予約制で利用可能にしている図書館もあるのかもしれない。


ここまで書いて、Web予約といっても、皆が皆ネットにアクセスできるわけではない、という点について書く必要があるように思った。Webでの予約ができないのなら、電話予約も可、というのが思い浮かんだが、そうなると図書館側が大変になるかもしれない。電話予約受付係が必要になるので。電話受付は図書館の開館時間内ということにすれば、いいような気もするのだけれど、どうだろうか。



同窓会と訃報

少し前、知人が同窓会の話をしていた。
今年は同窓会が行われる年だけれど、コロナ禍ということで延期になったそうだ。
知人の話によると、同窓会に行くと懐かしい昔話に花が咲くと同時に、同級生の訃報を聞いたりすることもあるらしい。
同級生の訃報……。
その言葉を聞いて、なんとも言えない気分になるのは、私だけではないだろう。


平均寿命はあくまで「平均」であって、皆が「平均」まで生きるわけではない。
年をとるにつれて、病死等で亡くなる人が増えていくのは、まぁ当然だ。知人は、同窓会に行って、「○○さん亡くなったんだってよ」と同級生の訃報を聞いたけれど、今更弔問に行くほど親しかったわけでもないし、「ああ、亡くなられたのね」くらいの感情しか表に出てこなかったと言っていた。ものすごくわかる。人はだれでもいつか死ぬ。それが早いか遅いか、それは誰にもわからない。


もっとも、わたしは大々的な同窓会に行ったことがない。これからも行くことはないだろう。同級生は過去のつながりで、今は、もうつながっていない(ただし、友人を除く)。またあらためてその同級生とつながろうとも思わない。今、同級生が何をしているとか、そういうことに興味もないし、私が今何をしているか興味本位で聞かれたり、探られたりするのもイヤだ。その場限りの笑顔や調子のいい会話は大嫌いだ。何十人も集まれば、マウントをとる人も出てくるだろう。同級生相手に勧誘的なことをしてくる人もいるかもしれない。


こんな風に同窓会に対していいイメージを持っていない。もうつながっていない同級生の訃報を聞きたくないし、その亡くなった人についてあれこれ推測し、噂する輪にも入りたくない。結局は「私たちも体には(あるいは事故には)じゅうぶん気をつけなくちゃね」で終わってしまいそうだ。故人を悼む心があるのなら、そんなに簡単に訃報を口にはできないのではないだろうか。




外に出ないことのメリット、デメリット

出かけなければならないけれど、
できるなら出かけたくないという葛藤。本音。
これは今年になってますます強くなった。


以前よりも買い物や用事をまとめて済ませるようになった。
基本的には外出したくない。
どうしても外出しなくてはいけないのなら、買い物や用事を全部済ませてしまいたい。
そうなると、意外にかかるのが時間で、「うーむ」となってしまう。
短時間で行って戻ってくるほうが、リスクが少ない(?)ような気もする。
でも短時間の外出を繰り返したら、結局はまとめて済ませるのと同じか?うーん、どうだろう?


よく読んでいるある作家さんのブログに書いてあったのだが、その作家さんは5分以上スーパーとかに滞在しないようにしているそうだ。
5分……それはちょっと無理かも。私がよく行くスーパーの広さから考えると。
コンビニなら目的の物だけ買って5分で終わるかもしれない。
スーパーのレジで並んで待つのでさえ5分はかかる。
開店直後や閉店前なら並ぶこともないのだろうけど、そういう時間に行くのは、私の場合ちょっと無理だ。
混んでいる時間帯は避けるようにしている。あとは人がいるエリアは避けるようにしたり。


ネット(ネットスーパー)で食料品等買うという手もあるけれど、今はそこまではしていない。
ネットで食料品を注文して配達してもらっている人はコロナ禍増えているだろう。


全然外に出ないことのメリット、デメリットを今つらつらと考えている。
メリットはコロナ感染のリスクが減ること。
デメリットは歩かなくなること、運動不足になることだろうか。気分的にもずっと閉じこもっているのはよくない。
外に出て受ける刺激、新しいものに触れることは大事だ。


図書館も現在休館しているので、本当に困る。
利用する際は、一人30分の時間予約制とかにして、図書館に行けるようにしたらいいのに、と思っている。



面白いという感覚の鈍化について

コロナ禍ということもあって、面白いと思うことが劇的に減った。
テレビを見ていても、ネットを見ていても、何をしていても面白いと感じることが格段になくなったように思う。
もちろん、これは個人の感覚の問題だ。
わたしには面白いと思えないことでも、他の人にとっては面白いこともあるだろう。


面白く感じられなくなっているのは、疲れているからかもしれない。
いろいろなことが面倒になってきているのは否めない。


この本を近いうちにまた読んでみようと思っている。
以前、一度読んだ気がするのだけれど、よく覚えていない。


面白く生きるのは自分次第だ、という気もするのだけれど、
自分で面白くできそうになくて、そもそも「面白い」と感じられるその感覚が鈍化していた場合はどうしたらいいのだろう。感情のセンサーの表面が真綿に包まれたような、分厚い手袋をはめられているような状態がずっと続いている。もしかしたら、過敏よりは、いいのかもしれない。敏感過ぎて、疲れる、精神的に消耗するというのはよくあることだ。


外出が制限されたり、閉塞感が感覚を鈍化させているのだと思う。
外出が怖いというその心理も。


それなら「外出せずに楽しめることをすればいい」という結論に向かいそうだけれど、それは何だろう。私の場合、映画やドラマを見る?読書?それとも創作?


生活は面白くなければいけないというルールはないけれど、
心のどこかで「面白さ」「楽しさ」を求めているのだと思う。
求めているけれど、なかなか得られないのでそれがストレスになっているとか、そういうのもあるのかもしれない。


面白いという感覚の鈍化について、もうしばらく考えてみたい。