自己嫌悪と再構築、あるいは改善

オンラインやメールでのやりとりが雨後の筍(たけのこ)のごとく増えすぎて苦痛だ。
筍だったら、食べられるからよいけど、オンラインやメールは煮ても焼いても食べらない。(何を言っているんだ?)


画面上でのことばのやりとりは、やはり齟齬が生まれる。コミュニケーションのギャップに頭を抱える。
発信する(表現する)側として、正確に書いて伝えているつもりでも、相手に伝わらない。想定外の解釈付で返信されたり対応されたり、雨後の筍化しているせいで、お互いやりとりが雑になっているケースもある。


そんなこんなで、自己嫌悪することがいくつもあった。明らかに私が悪くて、でもその時の自分は自分では悪いと思っていなかったのだから、なんとも呆れてしまう。


自分の悪いところを自分ではどうしようもないと諦めてしまうのが、これまた嫌だったりする。
嫌なので、とにかくどうにかしようと悪戦苦闘するパターンが脳内でグルグル再生されて、うんざりしてしまう。
頑張れば少しは良くなるんじゃないかと、努力を自分に強いる傾向があって、その傾向も疲れているときは毒になる。他者に努力を強いるのも毒だ。


それならば、努力を強いるのではなく、再構築する、その方向がよいのではないだろうか。
もう一度、作り直す。もう一度、やってみる。それくらいの気持ちでいいのではないかと。
一からキレイに作り直さなくていい。今持っている手札でできることをやってみようかと。


再構築、あるいは改善。前よりも少しでも良くなれば、それでOKではないだろうか。


悪いところに気づいたそれだけでも十分な前進だ。


というわけで、今日はこのへんで。



ワクチン接種(1回目)の個人的な感想メモ

新型コロナワクチン(ファイザー社)を受けてきた。(基礎疾患は無し)
副反応は、個人差があるので、何とも言えないのだけれど、私個人の接種後の症状についてメモしておこうと思う。

接種前

肩を出しやすい服装で」ということで半袖で行った。帰りが涼しかったので、はおるものを持っていって正解だった。接種時間が遅かったりする人は、気温差を考慮したほうがよい。夕方以降や雨など天候によっては、気温が下がることも多いので、カーディガンやジップアップパーカーを持っていくとよいかも。

接種後

すぐに接種部位が痛くなった。いわゆる筋肉痛。腕が上がらない。さわられたくないくらいに痛かった。腫れたりはなかったけれど、痛みはしつこく続いた。

接種当日も入浴はOKとのことだったが、腕が痛くて、頭や体を洗う気にならなかった。接種に行く前にシャワーをしておいてよかった。

接種翌日朝

腕が痛いだけで熱は平熱。

接種翌日昼~夕方

微熱(37.4度前後)が出始める。
解熱剤等は特に飲まなかったが、体がだるく(倦怠感)、ずっと横になっていた。

接種翌々日

微熱は続いていて、今度は頭痛が、それもかなり痛くて、頭痛薬を飲む。
しかしながら、あまり効かなかったように思う。この日も横になっていることが多かった。


微熱で汗をかくので、着替えは複数枚必要。前もって着替えを何枚か準備しておいたほうがいいかも。接種後、洗濯する元気はなかった。


水分補給用に所謂(いわゆる)スポーツドリンクを買いおきしておいたので、飲んだりしたけれど、
コップ1杯(150ccくらい)飲んで以降なぜか飲む気にならず、あっさりとした麦茶のほうがおいしいと思った。
(スポーツドリンクを普段飲むことがなく、飲み慣れていないからかも?)

接種3日後

朝は微熱があったが、昼からは平熱に。腕の痛みもかなりなくなる。

ワクチン接種後の副反応は2回目のほうが強く出るらしいので、はてさてどうなることやら。

ワクチン接種後、2~3日仕事を休めるスケジュールで接種したほうがよさそう。


以上がワクチン接種(1回目)の個人的な感想メモだけれど、もう一度書くと、あくまでも個人の感想メモで、副反応は人それぞれなので、「へぇ、そうだったんだ」程度で読まれてください。


長くなってしまったので、このへんで。


原書を読むには…

昨日の記事で書いたけれど、
komoko.hatenablog.com
アガサ・クリスティーのミステリー小説を翻訳を読まずに原書だけで読むのに挑戦していたのだけれど、途中で止めてしまった。


原書を読むには、語彙力(単語力)が必要だ。私は語彙を知らな過ぎて、英単語のひとつやふたつ分からないくらいだったら、まぁいいのだけれど、ひとつやふたつ分からないどころではなかったし、長文、それも相当な英語の長文を読み続けるには気力、集中力が必要で、途中まで読んで疲れてしまった。なかなかストーリーが入ってこなくて、全然楽しめない。英語特有の言い回しとニュアンスの蔓(つる)が複雑に足元に絡まって、動けなくなってしまった。


自分の母語以外の文章を大量に読んで意味がわかること、イメージできること、これは実はすごいことなのではないだろうか。


自分の場合、ミステリーは「とにかく謎を解きたい」ということに重きを置くので、それなら無理に原書で読まなくても、翻訳されたものがあるのだから、それでいいのでは…という結論に至った。原書で読むには、自分の英語のレベルが低すぎた、ということだ。


一方で、アガサ・クリスティーのポワロのシリーズは原作(翻訳されたもの)とドラマ版のちがいを探すのが目下の楽しみになっている。ドラマ版の場合、時間的な制約があるので、どうしても設定を変えたり、省略したりしなければならないところが出てくる。それは仕方がないことだ。そもそも長編小説をドラマ版だったら1時間半にまとめなければならないのだから、破綻なくまとめられるのがすごいと思う。(よくぞ1時間半にまとめたなぁ的な)


というわけで、今日の読書メモ。

これは面白かった。『鳩の中の猫』の次くらいに。



ストレス解消には…

ストレス解消について考えてみたので書いてみる。

ストレスフルな人に知ってほしい図解「アメリカカウンセリング学会推奨『ストレス解消法』100」…「古い友人にメールをする」「猫は神」「まずは楽しめ」など - Togetter

時間が必要なものは、なかなかできない気がする。いかにストレスになるものを遠ざけるか、そっちの方を考えたいけど、自分でどうにもならないものは、あきらめるしかない?

2021/09/07 13:09

ブコメでは、自分でどうにもならないものは、あきらめるしかない?と書いたけれど、
ストレスは、「ストレス」と言う言葉を知った時点で、もうその存在を消すことができないものになってしまったわけで、
ストレスになるものを遠ざけられるのだったら、できるだけ遠ざけて、なんとかうまく付き合っていくしかないのかな、と。

うまく付き合っていく=ストレス解消ということになるのかな、と。
ストレス解消によって一次的ではあっても「ストレスが減る」というのは大いに意味があることだと思う。


さて、ストレス解消について、私の場合なんだろうと考えたとき、本を読むこと、映画・ドラマを見ることかなと。
特にミステリーものを読むこと、見ることが多くて、謎解き、推理するのが好きだ。
トリックや謎が解けた時の快感は、ミステリーならではだ。長編の場合、読み切ったという達成感もある。



ここの載せたのはほんの一部で、ぱっと思いついたものを載せてみた。
他にも未読のミステリーはたくさんあるし、読みたいミステリーもある。


なにかに夢中になるというのは、ストレス解消になる。
そしてそのストレス解消には、時間が必要で、
1日に1時間は無理でも30分でもいいので、ストレス解消の時間を作るようにしたい。


人の名前がなかなか覚えられない

人の名前がなかなか覚えられない。
しかもそれがカタカナだとなおさらだ。


本はミステリーを読むことが多い。
このブログのどこかでも書いたけれど、アガサ・クリスティーをよく読んでいる。
原書を読むのにも挑戦したけれど、これは途中で止めてしまった。
今は素直に翻訳されたものを読んでいる。


読書メモとして書いておくと、

どちらも登場人物が多くて、名前をなかなか覚えられなかった。


が、ドラマ(DVD)で見てみると、
意外とすんなり頭に入ってくる。本で読んでいるせいもあるけれど、
画で見るほうが登場人物と名前の一致は格段に早い(私の場合)。
画の持つ情報量が記憶に拍車をかけているのだと思う。


『漫画で覚える~~~』という本をよく見かけるのも、画が(絵が)あったほうが、イメージしやすい=覚えやすいから、いろいろと出版されているのだろう。


『鳩のなかの猫』(ドラマのほう)で、ケルシー警部を演じていた俳優さんを、他の映画かドラマで見た気がするが、名前がわからなかった。というより、人の名前がなかなか覚えられないので、ドラマでたまに見かけるけど、名前は知らないという俳優さんは結構多い。


どうにも気になったので、調べてみたら、ケルシー警部を演じていた俳優さんはアントン・レッサーという俳優さんで、『刑事モース〜オックスフォード事件簿〜』のブライト警視正を演じている俳優さんだった。(『刑事モース〜オックスフォード事件簿〜』はAmazonのPrime Videoで見た)


映画やドラマを見ていると、同じ俳優さんがあちこちで別の役をされていることは、よくある。それを発見するのは楽しかったりする。

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過去を振り返るよりも

過去、自分が書いたものを読み返すのは、味付けを間違えて、もう食べたくない料理を無理に食べるのに似ている。


「無理に食べなくて(読まなくて)いいよ」
と推しボイスで脳内再生してみる。(なに書いているんだ?)


当時はそれで「よい」と思って、アップしているわけだけれど、
しかしながら、ブログという媒体は、あとあとまでずっと残るところが良いところであり怖いところである。


もう何度書いたか覚えていないくらい(というか覚える気もないのだけれど)、私は自分の過去記事を読み返さないのだけれど、
まちがえて靴下を裏返しに履いてしまうことがあるように、ふと読み返すことがある。
そんな感じで読み返したあと、猛烈に日本からウルグアイの東、約1000km離れた大西洋に到達するまで穴を掘りたい気分になる。(掘らないけど、いや、そもそも掘れないけど)


当時はそれで「よい」と思ったのだから、もうそれでいいではないか。
こう開き直れるのは、年を取ったからだろう。


昔だったら、気に入らないところをいちいち修正していたかもしれない。


今は、いちいち修正することはない。
それは何故か。
そんな暇はないからだ。(そしてめんどくさい)


過去を振り返るよりも、これからのことを考えていたい。
まぁこれからのことを考えて、不安になったりもするのだけれど、
昨日も書いたように、
komoko.hatenablog.com
悲観的な想像は、フェールセーフとなるものを設定することができるので、必ずしもマイナスの悪いことではない。
つまり、故障や不具合、最低最悪のことが起きたとして、その際どうするか、ということを予め考えておく、これは大事なことだと思う。


一方で先のことばかり考えていると、目の前のことが疎(おろそ)かになるというのはある。
逆に、先のことを考えたくなくて、目の前に迫るものだけをとりあえずこなすということもある。
どちらも私には「あるある」だ。


結局、何を書きたいのか分からなくなってきた。
でもまぁ今日の記事をまとめると、
過去を振り返るよりも、これからのことを考えていたい。
ということなのかもしれない。


と、ここまで書いたら、
「過去から学ぶこともあるよ」
と推しボイスが脳内で囁いてきたけど、それについてはまた今度かな。



「知ること」と「想像力」、そして「知らない世界」

タイトルにも書いたのだけれど、「知ること」と「想像力」、「知らない世界」について書いてみる。


本やネットやテレビなどのメディアから「知ること」は多い。
あるいは自分で実際に見たりや経験したりで、いろいろなことを知る。知るという行為は日常的な行為だ。
「知る」が「知った」「知っている」に変化したとしても、それら「知ったもの」「知っているもの」はすべてではない。
本やネットにもテレビにも自分の目にも映らない、自分で経験していないものがある。
それはいわゆる「知らない世界」になる。


本やネットやテレビで見る世界は、誰かがそれを見せたくて(見せるために)切り取った意図的なものだ。恣意(しい)的なものと言ってもいい。
切り取られた世界は、本当にほんの、ごく一部にすぎない。


自分の目に映らないものは知ることができないし、したがって興味関心を持つこともないし、まして経験していないものについては、よくわからないので、想像のしようがない。なんとなくは想像できても、それは想像でしかなく、実際とは異なるだろう。想像と現実(実際)とは必ずといっていいほど差異、ズレがあるものだ。


「想像力」には限界がある。どれだけ想像の翼を広げたとしても、「知らない世界」を「知っている世界」にすることはできない。


では、「想像力」は意味がないのか。
そんなことはないだろう。


「想像力」はよくも悪くも、自分の心に影響を及ぼす。自分で想像し、楽しくなることもあるし、自分で自分の首を絞めることもある。悲観的な想像というやつだ。悲観的な想像は、マイナスに捉(とら)えられがちだけれど、そうではなく、危険の想定ができるということ、そうならないためにはどうしたらいいかという考えをめぐらすことができると捉えれば、必ずしもマイナスではないだろう。


この本は私が悲観についての見方を変える本になった。


この世界にあるものすべてを知ることはできない。必ず知らない世界がある。「無知の知」ということばもある。


まだまだ知らないことがある。それは「知る」楽しみが残っているということでもある。
知ることは楽しい。そして想像することも。
でも想像を「暴走させる」ことだけは気をつけたい。


長くなったので、このへんで。