本当の自分、なりたい自分、書いたもので判断されるということ。

昨日のまなめはうすでこのブログの『書いた文章に本当の自分が表れる。』をとりあげていただきました。そしてこのようなコメントをいただきました。

本当の自分よりも、なりたい自分像が現れることも多いなぁ。やっぱり誇張したくなりますからねw また、読者からしたら書いたものだけがその人のすべてですから、それも忘れないようにしています。

本当の自分となりたい自分

そうですね。なりたい自分像が現れるというのもあるなぁと思いました。なりたい自分を文章で表現する、そうすることで、そんな風になれたらいいな、と思うことあります。


このブログでも私のTwitterでもそうなのですが、テンションが高いなーという文章のときあります。それは、そういう自分をアピールしたいからかもしれません。実際は私はテンションは高い方ではなくて、のほほんとしてます。マイペースです。ひとりでコツコツちまちま作業するほうが好きです。何時間でも黙っていられるタイプだったりします。


ふとそういう自分じゃなくて、もっとテンション高い自分があってもいいんじゃないかなと思って、ブログやTwitterではテンション高めにすることあります。自分で自分のテンションを高くするコツというのかな、そういうのはわかるようになりました。なりたい自分になれると書くとおおげさな気もしますが、実際のリアルの自分も変わろうと思うことで変われるような気がします。


そうですね、変わりたかったら変わらなくてもいいし、変わりたいと思えば変われるものだと思います。今の自分となりたい自分とのギャップというのはしばしばあるものですが、なりたい自分になかなかなれないからといって焦ることもないんじゃないでしょうか。ゆっくりとなりたい自分になっていけばいいんじゃないかなと思います。急に人は変われない、特に性格的なものは変わらないように思います。少しずつなりたい自分になっていけたらいいと思っています。


『読者からしたら書いたものだけがその人のすべて』

そうなのですよね。これもそうだと思います。見たことも会ったこともない読者がその人を判断する材料というのは、書いたものしかないのですよね。他には判断材料がないので書いたもので判断してしまう。ブログやコメントでいつも皮肉を書いている人は皮肉屋さんなのかなとかアグレッシブな文章を書いている人は実際もアグレッシブで怒っているのかなとかまぁそんな風に思ってしまいます。


書いたものはずっと残ります。書いたものでどういう人か判断されるというのはあります。
読む人によってその判断というのは変わってくるわけで、自分が言っていることとちょっとちがうんだけどな、ということもあります。そのあたりはネットでの書き言葉による意思の疎通の難しさがありますね。伝わっているのか手ごたえが感じられないときありますね。まぁそんなものかな、と思いつつ、それでもあきらめずに声を出していくことでしょうか。すべてをわかってもらう理解してもらうというのは無理なことですし、そもそも自分でもわかっていなかったりしますし、まぁ共通感覚というのかな、読んでわかってくれる人はわかってくれるかな、くらいがいいのかもしれません。


書いたもので判断され、またその判断は人によってちがう。本や映画の感想が人それぞれちがうように、書いた文章に対する反応も人それぞれちがう。それはそれで面白いですね。いろいろな反応が見られて面白いです。(関連記事:『ブログ。予想外の反応が面白い。』)



そうですね、書かないことには、表明しないことにはわからないです。他の人にはわからないです。何を言いたいのか。
まずは書いてみることですね。
今こうして書いている文章はWeb上で不特定多数の人が読み、それぞれに感想を持つものだということを頭の片隅に置きながら、書いてみることでしょうか。
私としては、書きたいことを素直にできるだけわかりやすく書きたいと思っています。