過去ログを想う

過去ログを想うという表現は詩的すぎるかもしれない。
けれど、ふと思うのです。
毎日書かれ公開されるブログの世界。その膨大な量の文章はログとして残り、それはすぐに過去のものとなって、流れていくのか、それとも積み重なっていくのか、あるいは、沈んでいくのか。


今こうして書いているものを大事にしたいと思うのは誰でも思うものだと思う。
たとえそれが過去のログとなってしまっても、そのログは存在することに意味があって、存在することで誰かに読まれるかもしれないという可能性を残し、だからこそ残すべきなのだと思う。消す自由もブロガーにはあるのだけれど。



真新しさ、話題性に人は惹かれ、集まってくる。
それはわかるし、新しい情報には価値がある。
人は新しいモノが好き。古いモノに価値がないというわけではないけれど、やはり流行に興味があるのが一般的だ。



流行を追わないというやり方もある。
流行を追うのも自由。
それは各個人の判断で。



ただ思うのは、新しい記事だけ読まれがちだけれど、新着エントリーにどうしても注目が集まりがちだけれど、
過去ログでも秀逸な記事というのはあるということ。
時間が経ってもなおすごい記事というのはある。
日付の新しさにばかり目がいっていないか自分に問いたい。


過去記事が発掘され、日の目を見ることは案外少ない。結局のところ、真新しさ、話題性のある記事が先行していて、過去遡って記事が読まれるということは少ない。



過去ログが眠りにつき、そしていつしか忘れ去られる。
それはブロガー自身にも言えることかもしれない。
今は書くことで存在を証明できるけれど、未来はわからない。
明日書く自分はいないかもしれない。
更新のとまった世界を再び訪れる人は一体どれくらいいるのだろう。



ブログもある種の並行宇宙=パラレルワールド
パラレルワールドであり、かつログを、過去を見れるところに価値があるように思う。
たとえその世界が時がとまった世界だとしても、ブロガー自身すでに存在しないとしても
残ったログは生き続ける―――そこまで断定するのは僭越すぎるだろうか。



過去の膨大なログを想うと、人間のすごさを思う。ブログというツールを生み出した人間はすごい。
Web上には読みきれないほどのログがあり、そしてまたこれからもログとなるものが書かれていく。
わたしは、ログのほんの一瞬、瞬きをするほどの一瞬の世界を見ているだけで、そして自分が書いてることも砂に書いたラクガキくらいのことしか書けていないように思う。


物理的には一瞬で消すこともできるブログ。
けれど読み手の記憶の中に、記憶の片隅に一文でも残すことができたとすれば、それは書き手としてはうれしいことなのかもしれない。