『哲学の先生と人生の話をしよう』を読んで考えたプラス志向のことなど。

何か大きな怪我をしたり大きな病気にかかったりすると、そのことを考えるために多大なエネルギーを使わねばなりません。人間の精神エネルギーには一定の量があり、どこかが大量にエネルギーを消費すると、他の部分には多くのエネルギーを使うことはできなくなります。
哲学の先生と人生の話をしよう』より


まさしく昨年(2021年)の秋がそうだった。思いもよらない大怪我。
仕事に行けなくなるんじゃないかと思うくらいの怪我だった。
怪我や怪我の治療のことで頭はいっぱいになり、寝ていても怪我の痛みに悶絶していた。
上記の本にあるように精神エネルギーの大部分を消費させられ、ポジティブなことが全く考えられない状態だった。


と、こんな風に書けるのも、「今」だから書けるわけで、
「怪我をした当時」はまったくもって「余裕」は皆無だった。



プラス志向とは?

プラス志向は様々なことを考えずに済ますことによって可能になります。世の中に確実なことがありえない以上、何ごともよい方向で考えるプラス志向というのは信仰でしかありえません。そして、現実に起こる様々な事柄は、この信仰を揺るがすものです。当たり前です。物事は悪い方向に向かうこともあるからです。
哲学の先生と人生の話をしよう』より


プラス志向は様々なことを考えずに済ますことによって可能になります。
この一文に「確かに」と腑に落ちる自分がいて、
プラス志向、あるいは楽観的(ポジティブ)でいることは、「見たくないものを見ないでいること」で可能になると、言えなくもないかな、と。

それにもかかわらずプラス志向を維持するには、悪い方向に向かっている物事から目をそらさなばなりません。そうやって眼をそらしてはじめて、何ごともよい方向に進んでいると考えるプラス志向が可能になる。つまり、多くの事柄を考えないことによってこそ、人はプラス志向でいられる。
哲学の先生と人生の話をしよう』より


様々なものが目に入り、それらすべてについて逐一考え、感じ、追及すると脳はパンクしてしまうと思う。
人は見たいものを見、無意識に選択して見ている。
同じ風景であっても、人が見ているものは違う。
ある人は桜の花をひたすら眺め、
ある人は散った桜の花びらを見、その行方を考えたりする。
ある人はどうやったらきれいな写真が撮れるかばかり考え、
ある人は桜の木ごとに違う花の色が気になり、
まぁ人それぞれ見ているものは違っていたりする。


プラス志向は、今よりよりよい方向、ゴールへ向かうことを良しとする志向だと思う。
それはそれで、わるいことではない。
しかしながら、がむしゃらにゴールを目指すがゆえに、切り捨てていくものも多いのではないだろうか。


なにもかもをキープしたままで、ゴールまでたどり着くというのは、なかなか難しいことのように思う。
いや「なにもかもキープしたままで、ゴールにたどり着く」ということも不可能ではないだろうけれど、
人によっては(個人の能力やキャパによっては)、
あきらめないといけないものをあきらめて(切り捨てて)、
あるいは、見ないようにして、ゴールに突き進むというケースもあるように思う。


見ればつらくなるものは極力見ないようにし、切り離し、
なにかに集中することで、平静を保つというのをわたし自身も繰り返してきた。

抑圧とエネルギー

しかし、ものを見ないということにもエネルギーが必要です。目に入ってしまうことを無理矢理に押しつぶして抑圧しなければならないからです。抑圧には大変なエネルギーが必要とされるというのもフロイトが言っていたことです。
哲学の先生と人生の話をしよう』より


抑圧には大変なエネルギーが必要とされる
それはそうだろう。
人は見れば、やはり何かしら感じたり考えたりするもの。
だから、いっそ見ないようにすることを私の場合日常的にやっていたわけで、
「進んでいく」ためには、そうすることが必要で、
「進んでいく」ことでしか、自分の居場所を得られなかったというか、
自分の居場所のために「戦ってきた」みたいな、まぁそんな感じなんだと思う。


「見ないようにする」という抑圧の結果、平静を得られるというのは、若干小賢しい気もするが、
そうすることを無意識に選んでいたので、これも一種の生きるための術(すべ)なのかもしれない。

結論のようなもの

したがって次のような結論が導きだされます。プラス志向の人は、そもそもたくさんの事柄を考えないで済ましており、また、たくさんの事柄を考えないで済ますために多大なエネルギーを必要としているから、考えられる事柄が限定されている。ということは、プラス志向の人はあまりものを考えていないということになります。


なんでそこまでしてプラス志向を維持するのか?それは人それぞれでしょう。たとえば、そこまで無理をしなければ、自分に不利な環境では頑張って仕事をしてこれなかったとか、いろいろな理由が考えられます。いずれにせよ、そうしたプラス志向を維持することで、その人は多くのことを考えずにすませている。おそらく、周囲の人間のことを考えることに使われるエネルギーはわずかでしょう。
哲学の先生と人生の話をしよう』より


周囲の人間のことを考える、これはものすごくエネルギーが必要なことだと思う。
自分のことでいっぱいいっぱいであれば、周りの人のことまで考える余裕がないのは仕方がないことだと思う。


「周りの人のことまで考えなさい」というのは、余裕がある人が言える言葉で、
余裕がなかったら、自分のことをどうにかすることで頭がいっぱいで、周りの人のことなど考えられない。


私の場合、本当に余裕がなくなると、どうしていいかわからず、思考停止状態になってしまう。
昨年、大怪我をしたとき、入院はしなかったものの、
通院しても痛みはひかず、痛みで眠れず、ひたすら痛み止めの薬にすがっていた。
一体いつまでこの痛みが続くのかと、自分が吐き出す愚痴に自分でうんざりしていた。


薬があれば、痛みでどんどん飲んでしまう。


痛みをどうにかしたくて、
薬の種類を変えては飲み続けた。
これは、やばいと思った。


薬に依存し、
病院をコロコロ変え、
ドクターショッピング状態になりそうで、
結局、病院に行くことも、薬を飲むこともやめた。


もう怪我のことを考えたくなかった。
もちろん、痛いのは、痛い。
でもどうにもならない。
怪我に精神的なエネルギーを奪われるのは、もうイヤで、
ついには、怪我について考えることをやめた。
今思うと、その時、なにも考えたくない状態(思考停止状態)だったように思う。



で、「今」。
怪我の痛みはなくなったわけではない。
でも精神的なエネルギーをべらぼうに搾取されるほどではない。


精神的な「余裕」というのは、「時間を作ることだ」と持論めいたものに至って、
とにかく無駄を省き、なにもしない時間を作るようにした。


なにもしない時間(予定がない時間)は、文字通り本当になにもしなくてもいい。ぼーっとしていていい。
精神的なエネルギーを使わなくてもいい時間は、寝ている時間以外にも必要だ。


「なにかをしなければいけない」という呪縛を断ち切った状態、その時間が大事だと思う。



プラス志向、それ自体は悪いことではないけれど、
プラス志向ゆえに、抑圧しているものや切り捨てているもののもあったりするということ。
また、プラス志向といったものを誰かに押し付けるものではないし、
志向や考え方は、まぁ人それぞれだよね、というスタンスで。

この本を読んで考えたことは他にもいろいろあるのだけれど、
長くなってしまったので、今日はこのへんで。