面白いという感覚の鈍化について

コロナ禍ということもあって、面白いと思うことが劇的に減った。
テレビを見ていても、ネットを見ていても、何をしていても面白いと感じることが格段になくなったように思う。
もちろん、これは個人の感覚の問題だ。
わたしには面白いと思えないことでも、他の人にとっては面白いこともあるだろう。


面白く感じられなくなっているのは、疲れているからかもしれない。
いろいろなことが面倒になってきているのは否めない。


この本を近いうちにまた読んでみようと思っている。
以前、一度読んだ気がするのだけれど、よく覚えていない。


面白く生きるのは自分次第だ、という気もするのだけれど、
自分で面白くできそうになくて、そもそも「面白い」と感じられるその感覚が鈍化していた場合はどうしたらいいのだろう。感情のセンサーの表面が真綿に包まれたような、分厚い手袋をはめられているような状態がずっと続いている。もしかしたら、過敏よりは、いいのかもしれない。敏感過ぎて、疲れる、精神的に消耗するというのはよくあることだ。


外出が制限されたり、閉塞感が感覚を鈍化させているのだと思う。
外出が怖いというその心理も。


それなら「外出せずに楽しめることをすればいい」という結論に向かいそうだけれど、それは何だろう。私の場合、映画やドラマを見る?読書?それとも創作?


生活は面白くなければいけないというルールはないけれど、
心のどこかで「面白さ」「楽しさ」を求めているのだと思う。
求めているけれど、なかなか得られないのでそれがストレスになっているとか、そういうのもあるのかもしれない。


面白いという感覚の鈍化について、もうしばらく考えてみたい。



何かを続けるということ―中国語の勉強について

趣味で10年以上続けているものってないなぁと思ったのだけれど、
「あー、語学の勉強だったら、10年以上続けることになるだろうなぁ」と。
英語と中国語の勉強だ。
英語は、勉強を続けているけれど、それほど上達しているとは言えない。
中国語のほうが、これはまだ10年も勉強していないのだけれど、ピンインも知らない全くの0から始めて、今では中国ドラマのセリフをだいたい聞き取れるようになったので、進歩しているといえば進歩していると言えるかもしれない。


中国語は、カルチャースクールに2年くらい月に2回通って、ネイティブの先生から習って、発音や基礎を勉強した。
発音や基礎をネイティブの先生に習って本当によかったと思う。
そこでのテキストは入門的なものから始めて、みっちり学んだ。


NHKの「テレビで中国語」も見ていた。2年くらいは続けて見ていたように思う。


中国語を耳で覚えたいと思ったので、

この2冊に付属のCDは本当に何十回と聞いた。いまでも聞いている。


外国語を聞いてわかるというのは、実はなかなか難しいことで、
テキストや字幕があると、ついついその文字情報に頼ってしまいがちで、
でも実際の会話ではそんなもの(テキストや字幕)はないわけだし、
聞いてわかる、それは外国語習得の第1段階だと思う。
聞いてわかる、それから話せるようになる、とレベルアップしていく。
中国語は四声あり、聞き取るのはなかなか難しかった。ましてや話すのは、今でもうまくできない。


話すというのも難しいのだけれど、
書く(作文)というのはさらに難しいように思う(私の場合)。


まぁ、これまでというか今現在、書く必要性(中国語で何か文章を書く)を感じていないので、特に書く勉強をしてこなかったのだけれど、これからは短い基本的な文を書けるよう勉強してみようかと思っている。



予定通りにいかない日

ひと言で言えば、「予定通りにいかない日」だった。

そもそも予定は「予定」で、実際には頭で考えていたとおりにはいかないものだ。
それでイライラした。イライラするのも、まぁわかる。
わかるけれど、イライラを引きずるのは精神衛生上よくない。


予定通りにはいかなかったけれど、それでも0ではない。
10%か20%くらいは進んだんじゃないかと思う。


イライラを引きずるのではなく、うまく切り替える。
今日できなくても、明日でもOKなものもあるので、明日それを優先的にすることにする。


今日仕事をしながら思ったのは、何がゴールか、最終的なゴールをはっきりさせておくのは大事だということ。
ゴールは明確なほうがいい。
ゴールまでの過程、プロセスも大事だけど、あれこれやっていくうちに、ゴールがあやふやになっていくことが多いように思った。
まして、今日のように予定通りにいかない日があると、うもももももーーーーーとなってしまう。
予定通りにいかない日があることも最初から頭に入れておいたほうがいい。
調整も適宜必要で、そうそう、仕事って試行錯誤しながらやっていくものだよな、と思い出したところで、今日はこのへんで。







ネットやニュースを見るのは朝と夜だけ

タイトルにあるように「ネットやニュースを見るのは朝と夜だけ」というのを始めてみた。しかも朝30分、夜30分に限ることにした。(ネットとニュース合わせて30分)


ネットやニュースを見る時間を減らし、他にやりたいこと、やらなければならないことをする、というやり方を続けてみようと思っている。
たぶん、ネットやニュースを見る時間を減らしても、特に困らないんじゃないかと思う。
もちろん必要があれば検索するし、メールも使う。メールのチェックも朝と夜だけ、としたいところだけれど、メールの場合そうもいかない。


このブログも8月に再開して、今日で3日目だけれど、一回あたりにかける時間は30分以内にしている。
以前は長文で時間もものすごくかけていたものだけれど、今現在「そんなに書く時間がない」というのと「長文は好まれない」というか、だいたいにおいて長文は最後まで読まれない運命をたどるものだというのを経験的に知っているので、それなら、ほどほどの文でいいのではないか、という自分なりの結論に達している。


30分で書きたいことを書いて残しておくスタンスで、充分かな、と。(十分ではなく充分)
物足りなければ、また次の記事で書けばいい。
ほどほどがよい。


0ではなく、1であることに意味があると思うし、その1は「ほどほど」でよい。


そんなわけで今日はこのへんで。


できるようになりたいことを地道にやってみる

あれこれ不安になってしまうのは、ネットやニュースを見すぎてしまうからだと思う。
ゆえに、ネットやニュースを見るのは必要最低限にすることにした。
この必要最低限というのは、もちろん個人差があって、自分でこれが必要最低限だと思えば、それでよい。(30分でも1時間でも2時間でも?)


時間があるとネットやニュースをチェックしてしまう。それをやめて、他のことをしようと思った。
「できるようになりたいことを地道にやってみる」というものだ。
例えば、ピアノやギターが弾けるようになるとか、スペイン語やイタリア語がわかるようになるとか(話せるようになる、と書くとだいぶハードルが高くなるので、日常会話なら、なんとなくわかるようになるくらいでOKとする)。
時間があるから、あれこれ考えてしまう。特に昔のことを。楽しかったことより、つらかったことのほうが、鮮明に思い出されてしまうから、不思議だ。


時間は有限。一生という時間は有限と言ったほうがいいだろうか。


映画を見るといった、受動的なことよりも、自分で何かをする能動的なことのほうが、不安の穴に落ちこまなくてよい。(私の場合)


ショートストーリーを書くというのもやってみたい。ショートストーリー(超短編小説)を書けるようになりたい。


というわけで、今日はこのへんで。






外に出るのが怖い

最近の状況から言って仕方ないことなのだけれど、外に出るのが怖い。人に会うのも怖い。


「マスクして距離をとっておけば大丈夫」とは言えなくて、(これも私が勝手にすりこまれていることなのかもしれないけれど)結果、外に出るのは必要最小限になる。


必要最小限になると、どういうことになるかというと、日々が同じことの繰り返しになる。それは安定しているという意味ではよいのだけれど、一方で、閉塞感を生む。閉塞感は心身ともに良い影響を及ぼすはずもなく、ぶっちゃけ息が詰まりそうである。そうは言っても、外に出るのが怖いという心理的な壁は無言で鎮座し続けていることは変わらない。


この心理的な壁をなんとか壊そうとか、そういうことはするつもりはない。怖いものは怖いのだ。
壁の一部、狭い戸から時折(必要に迫られて)抜け出して、いつものルートをたどって、また戻る、その繰り返しができているだけでも自分で自分を褒めてあげたい。


この状況下、できることをやるしかない。とはいえ、できることは限られていて、むしろ、どんどん制限されていく。
制限があるなかで、自分ができること、やりたいことは何か。およそ1日あれこれ逡巡したところで、たどり着いたのは「書いて残すこと」だった。


仕事以外で10年以上続けていることが何かあるかと聞かれれば、習い事も10年とかそんなに続いたことがないし、趣味にしても10年以上続けていると言えるものはない。唯一、このブログは10年以上続いていることに気づいて、また書いてみようかと。(あまり年数を気にするタイプではないのだけれど)


書くことで、頭の中に冷静さを取り戻せるというのはある。外に出るのが怖い今でも書くことはできる。閉塞感の中で書くものが一体どんなものなのか、それは自分でも想像ができない。でも、閉塞感や孤独感の中で書き残すものも、案外面白いのではないかと思う。とりあえず、書いて残すことが大事かと。




読んだ本『「不安」にならない練習』

自分が「固執化バグの影響が強い不安を繰り返す堂々めぐりタイプ」だというのは、この本を読んでほぼ確信した。

1つのことを考え続けることのできる、まじめな人といえそうです。
ただ、その真面目さがアダとなり、一度何かに悩みだすと、際限なくそれを考え続けてしまう(頭の中で堂々めぐりさせてしまう)傾向があるようです。また、何らかの対策を講じた場合も、真面目さゆえに、「これで十分なのか」「他にもできることはないか」などと考えてしまいがちで、これまた堂々めぐりを生むことになります。
一方、行動によって頭を切り替えることは得意でなく、ストレスをためてしまいがちです。「気晴らし」になることを自分で見つけてスッキリするとか、他人に相談し、不安感を軽減してもらうとか、自分なりのストレス対処の方法を持つことが必要そうです。
「不安」にならない練習』より

自分なりのストレス対処法がこれといってなかったりして困ることもしばしばだ。
いつもより多く寝ることくらいしかストレス対処法が思い浮かばなくて、でももしかしたら、「寝ること」は自分にとってはいちばんのストレス対処になっているのかもしれない。

この本のなかに

ワンポイント・アドバイス
不安を慢性化させないためには、新たな目標を自分に課すなど、自分の関心が他に向かうように仕向ける技術を持つことが必要です。第7章-07の練習をお勧めします。『「不安」にならない練習』より

とあって、この第7章-07を熟読。いやはや、目からウロコが落ちたというか、いや、なんとなくそうすればよいのはわかっていたような気もするけれど、忘却の彼方へホールインワンしてしまっていたというか。


どんなに対策を講じても、不安をゼロにすることはそう簡単なことではなく、いつでもどこでも、私たちは不安に襲われる可能性があります。心の中で「考えまい」と思っても、というか思えば思うほど、脳は「将来の脅威」に注意を向けさせ、そこから不安への道が再び始まるのです(固執化バグの強い人とは、こうした傾向の強い人といえます)。
この「悪しき状態」を抜け出す方法は、基本的には1つしかないと考えています。それは「行動する」ことです。
脳はそんなに器用ではなく、1つのことに関心が向くと、それ以外のものには関心がいかなくなるという性質を持っています。「行動する」とは、言い換えれば、「いまそこにある外の世界」に集中することであり、不安から脳の関心をそらすには、最適なのです。(実際、ずっと抱えていた不安やモヤモヤした気持ちが、忙しくしていたら霧散してしまったという経験は、誰でもあると思います。もしかすると、脳の不器用さと忘れっぽさが、最後にヒトを救うものなのかもしれません)。『「不安」にならない練習』より

行動する」ことで、頭が切り替えられるのなら、それはよいことだ。
堂々めぐりをしがちで、思考が泥沼化して、窒息しそうになることもあるので、それなら、なにか他のことをする、この本に書いてあるように「切り替え行動」をあらかじめ準備しておく、それで不安を回避できるのなら、やってみる価値は十分にあるのではないかと。

不安につながりやすい「心ここにあらずの状態(マインド・ワンダリング)」は、目先にやることがなく、目的意識が途切れた状態、いわば「空白状態」において発生しやすくなります。
このことを踏まえると、「不安への思考」を防ぐには、「いかにして空白状態を作らないか」がポイントということになります。
「空白状態」を作らないために、ここで用いる方法は、あらかじめ、いつでもどこでも取り組めるような目標を自分で用意しておき、「空白状態」が始まると同時に、目標達成のために必要な行動(切り替え行動)に移れるようにするというものです(目標達成と不安回避の両方が実現できるので、一石二鳥です)。
目標の内容は自由ですが、積極的に取り組めるものであるためには、自分の価値観に合致していて、自分で「楽しい」と思えることが理想です。『「不安」にならない練習』より

なるほど。「楽しい目標」を設定すればいいのか。
なにか目標に向かって動くことは、わたしが昔から好きなことのひとつで、その目標も難しいものではなく、「楽しい」と思えるものを目標として、いくつか設定して、そちらに目を向ければ、そちらに集中する(行動する)ことになるし、とりあえず不安で苦しくてどうしようもなくなる、という状態は減るのではないだろうか。


実は、この記事を書きながら不安は自分で自分を不安にさせているのだということにふと気がついた。これから先の、まだわからないことに対して、「もし~たらどうしよう」と悲観的になったり、まだ起こってもいないことに対して最低最悪の事態を何度も想像したり、そうやって自分で自分を不安にさせて、焦り、その「自分で自分を不安にさせるクセ(習慣)」をなかなか止められないでいた。


自分で自分を不安にさせるクセ(習慣)」はよくないクセ(習慣)を心底止めたいと思った。この本で止めるにはどうしたらいいのかを見つけることができたように思う。あとは実践してみるのみだ。


まったく「不安」にならないというのは無理なこと。
でも、たとえ不安になっても、水たまりを踏んでしまって、靴を少し濡らしてしまった程度でおさまるようになるかもしれない。多少靴が濡れてしまっても大丈夫。歩くのに問題はないと思えるようになるかもしれない。