ことばは薬にも毒にもナイフにもなる。

本を書いた人には申し訳ない気もするけれど、自分の感覚で面白くないと思ったら、読むのをやめる。
一度読むのをやめたら、再びその本を読むことはおそらくないだろう。よほどの理由がない限り。

ということを下の記事で書いたのだけれど、
komoko.hatenablog.com
「よほどの理由がない限り」とあるように、読む理由が生じることがある。


理由はまぁその時その時で違うのだけれど、再び読む必要があって、そうすると一度目ではわからなかった面白さが二度目ではわかることがある。特に小説が多いのだけれど、年をとってから読むと「わかる」ものがある。経験の有無が本を読む時の理解や面白さに左右するというのは、ごく最近気づいたことだ。


ある程度年齢を重ねてから読むと「ああ、この感覚わかるなぁ」とか「私も同じだ」とか、おそらく作家の視点と同じ側に立てるのだと思う。


「書いてあることがわかる」がゆえに、時折息がとまるような、胸が詰まるようなそんな感覚に襲われることもある。
小説は物語で、現実ではない。が、物語は現実や実体験とリンクして、とんでもない作用を及ぼすことがある。
自分の傷をえぐられるような、そんな文章に出会ってしまって、それ以上読めなくなってしまったり。


逆に言うと、そういうことを表現できてしまうというのは、作家、表現者としてプロというか、さすがだと思うのだけれど、傷をえぐられたあとの対処法がわからないでいると、本当につらいだけだったりする。ことばは薬にも毒にもナイフにもなる。


若い頃はなんでも鵜呑みにしがちで、薬でも毒でもなんでも飲みこんでいたけれど、それってこわいことだな、と。ましてや「ことばがナイフになる」ということも、よくわかっていなかった。


今は、どうだろう。少しは気をつけるようになっただろうか。


多くの本を読み、文章にふれるというのは、よいことなのだけれど、時折毒やナイフも含まれているから、気をつけよう、ということだろうか。「気をつけよう」とは言っても、どう気をつけたらいいのだろう。疑いながら読めばいいのだろうか。


年を重ねるとともに、疑い深くなるというか、慎重になってきたように思う。思慮深い人に憧れているというのもあるけれど、考えてゆっくり行動する人の方が好感が持てる。ことばも同様に考えて、それから口にするようにしたいものだ。


長くなってしまったので、このへんで。
ストックがあったら、また予約更新します。(予約更新はPM9時の予定)


「手元に置いて繰り返し読みたい本、その本についてあれこれ書きたいと思うほどの本」について考えてみた

komoko.hatenablog.com
ここで以下のように書いたのだけれど

丁寧に深く読みこみたくなるような本というのは、感覚でわかる。
「これはずっと手元に置いて、くり返し読みたい本だ」というのは読んでいるうちにわかってしまう。

この本というのは活字に限らず、漫画の場合も多い。


昨年もずっと手元に置いて繰り返し読みたい本を見つけたのだけれど、こういう本はなかなかめぐりあわないように思う。


本を読みながら、考えこんでしまうことがある。
考えてしまうと頭の中が様々なものがぐるぐる回る洗濯機状態になる。
いつまでも回り続け、一向に止まる気配がない。


考えながら、時折反論したくなる。
作者(作家)はこう書いているけれど、自分はそうは思わない。
自分は……と自分の考えを吐露し始めたら、書かずにいられない。


過去そういう本や漫画の感想(レビュー)サイトをしていたこともあるけれど、なかなか時間がとられて楽しいけれど大変だったのを思い出す。また、自分の感想(レビュー)に批判的、否定的、誹謗中傷的なコメントが来たりして、それもなかなかつらかった。まぁ当時は若かったこともあり、それらにうまく対処できなかったというのもある。


本や漫画を具体的に例にあげて、あれこれ書くのは、実のところ難しい面があり、今のこのブログで書こうと思っても躊躇してしまうことが多い。上記の感想(レビュー)サイトをしていた頃は、エゴサーチして読みにきた作家さん本人もいたりして、嬉しい反面、怖いとも思った。まぁ、当時かなり尖った感想を書いていたりしたし、感想を書くことで自己顕示欲を満たそうとしていたところがあって、いやはや若かったなぁと。(今は閉鎖してそのサイトはありません)


さて、話を戻して、「手元に置いて繰り返し読みたい本、その本についてあれこれ書きたいと思うほどの本」というのは、希少で、それゆえ大事に自分の中にしまっておきたいと、そういう風に変わってきた。年をとってきたせいもあるだろう。


なんというか昔は「書いたものを読んでもらいたい!」という自己顕示欲が強かったのだけれど、今はそうでもない。まぁ誰かここに書いておけば読んでくれるだろう、と。
「手元に置いて繰り返し読みたい本、その本についてあれこれ書きたいと思うほどの本」に出会ったとして、本の感想をまた書きたくなることもあるかもしれないけれど、それよりは「心の中にしまっておいて熟成させたもの」を文章にしてここに載せたい。


「手元に置いて繰り返し読みたい本、その本についてあれこれ書きたいと思うほどの本」というのは、確実に自分に影響を与えている。その影響は自然と表に出てくるものだろうし、まぁ影響を与えるものは本だけではないわけで。
まぁ生きている以上様々なものの影響を受けるわけで。それはそういうものなんじゃないかと。


さまざまな影響を受けて、そのうえで文章を書いていきたい。少しずつ変化していく自分の文章を書き残しておきたいな、と。


長くなってしまったので、このへんで。
ストックがあったら、また予約更新します。(予約更新はPM9時の予定)



読書の時間について考える

大きな仕事の締切がひとつ終わり、絶賛積読乱読中。
3月はまだ一度もブログを更新していなかったことに気づき、これはいかんな、と。
月に8回くらいは更新したいものだ(希望)。


本を読みながら思ったのは、読書の時間のこと。
積読をどんどん読んでいくうち、どうしても面白くないもの、いまいちなものと出会ってしまう。
それをしぶしぶ読み続けるというのは、私の選択肢にはない。


残念だけれど、ぱたんと本を閉じる。電子書籍もしかり。


読書は面白い。
しかしながら読書にかけられる時間は限られている。


またすぐに締切に追われるようになる。
それまでのつかの間の時間をどう有効に使うか。


本を書いた人には申し訳ない気もするけれど、自分の感覚で面白くないと思ったら、読むのをやめる。
一度読むのをやめたら、再びその本を読むことはおそらくないだろう。よほどの理由がない限り。


思うに、ひきつけられて、あっという間に読んでしまう本というのは、自分に合っているのだと思う。
逆に、途中で読むのが止まってしまう本というのは、合わなかったということだ。


合わないものは合わない。
我慢するという選択肢もあるけれど、自分の時間は有限で、コンテンツは他にいくらでもある。それこそ人間の一生では読み切れないほど。


このブログのどこかで万人受けするブログはない、ということを書いた気がするけれど、本も同様だと思う。
万人受けする本はない。


丁寧に深く読みこんでいないから面白さがわからないのでは?


それも考える。
しかしながら、丁寧に深く読みこみたくなるような本というのは、感覚でわかる。
「これはずっと手元に置いて、くり返し読みたい本だ」というのは読んでいるうちにわかってしまう。



最近は想像力を広げるという意味で幅広いジャンルのものを読むようにしているが、私にとって読書というは繰り返し読みたい本、心の琴線に触れるような本を探す旅のようなものだと思う。


繰り返しになるけれど、その旅にかけられる時間は限られる。
旅の時間は満喫したい。
つまらないと思ったら切り捨てる。


切り捨てられると言う言葉は、残酷かもしれないけれど、切り捨てるのは「合わなかった」からであって、「良い」とか「悪い」とかそういうことではない。


読書は旅で、そして自由だ。
どんな読書をしてもいい。
考えながら読む読書もよい。
考えさせられるような本に出会いたい。


長くなってしまったので、このへんで。
ストックがあったら、また予約更新します。(予約更新はPM9時の予定)



この2か月を振り返って

今日で2月も終わりということで、今考えていることをメモしておこう。
これは予約投稿ではないので、あしからず。


この2か月を振り返って、書いて残しておくとしたら、
「読書は、よい。特に小説はよい」ということ。


想像力を鍛えるために読み始めたのだけれど、なんというか、どうして今まで読んでこなかったんだろうと思ってしまう。
読むには読んでいたけれど、偏った一部の作家の作品しか読んでいなくて、ちょっと反省。


そして、小説は、年をとってから読んだ方が面白いということ。
若いころはよくわからなかったことが、年をとって読んでみると「わかる」。
わかると面白い。


年をとるのも悪くないんじゃないかと、そう思えた。
気力、体力は衰えるけれど、精神的な充足を得られるのは年をとってからかもしれない。


精神的な充足とか安寧とか穏やかさといったものは、若い時はなかなか感じられないものだったように思う(私の場合)。


若い時も、それなりに充実していたのだろうけれど、なにしろ忘れっぽい私のことなので、本当にいろいろと忘れてしまっている。
楽しかったことももう忘れてしまっている。
まぁ思い出そうと思えば思い出せないこともないのだけれど、思い出したそれは、もやっとした霧に包まれて、茫洋としている。
これは思い出したうちに入らないんじゃないだろうか?


でもまぁ、それでいいのかもしれない。
過去は過去としてどこかにはあるわけで、そのどこかを掘り起こす時間は今はないし、また掘り起こしたくもないもののあるわけで。
掘り起こしたところで、なんになる?というのがある。


それよりは、「今の精神的な充足・満足」のほうが大事だ。思い出で精神的な充足・満足ができるかといえば、それはない(私の場合)。


精神的な充足・満足を求めるのは、ストレスが溜まっているからかもしれない。
私の場合、物を買うことでストレスは発散されない。
物を買って物が増えることでうんざりしてしまうことが多い。


長くなってしまったのでこのへんでまとめたい。


この2か月、時間を見つけては本を読んだ。
本当はもっともっと本を読んでいたい。
「仕事の締め切りがなければ、もっと思う存分本を読むのに」と思わない日はない。


ここに読んだ小説のタイトルをあげてもいいのだけれど、そうするとその小説に対して、どうこう言ってくる人(たまにいちゃもんをつけてくる人)がいるので、あげたくない。よかったと思う作品を、ひそかに大事にしておきたいというのが、ある。めちゃくちゃある。私の場合、「よかった!」「面白かった!」と熱弁をふるうタイプではないのかもしれない。若い時は熱弁をふるっていた、ような気がする(うろ覚え)。


明日以降、ストックがあったら、予約投稿します。PM9時更新予定。
ストックがなかったら、更新されませんので、あしからず。


想像力を鍛えるために

自分のことはあれこれ想像する癖に、他者のこととなると想像力に乏しいということで、今あれこれ小説を読んでいる。小説を読み、登場人物の状況や心情をあれこれ想像する。登場人物なので、想像するのはもちろん主人公だけではない。


さまざまな想像をすることで、少しは想像力が鍛えられるのではないか、とちょっと期待しているのだけれど、はてさてどうだろう。


自分が経験したことがないことを小説内の文章だけで想像することはなかなか難しい。
それはリアル(現実世界)であってもそうだろう。
自分が経験したことであれば、ある程度の想像もできるが、経験していないことから想像するとなると、全くの的(まと)はずれな想像をしてしまいそうで、ちょっと怖い。怖いというのは、表現としてどうなのだろう。想像が的(まと)はずれであるのを怖がるのは、自分が正しくありたいと思うからだろうか。


正しさへのこだわりは強いほうだ。強くてうんざりして、いっそどうでもいいとなってしまうこともある。
正しさにこだわり雁字搦(がんじがら)めになるのがイヤというか、めんどうというか。


それなら正しさにこだわらなければいい。
まぁ少々まちがっていてもいいよね、くらいのゆるさ。憧れる。


そう、想像なんだから、違うこともある。
想像は想像。
その想像で誰かを傷つけるとか、取り返しがつかないようなことになるとか、そんなことでなければ、自由に想像していいんじゃないだろうか。想像は脳内で。自由に想像する。想像するのは自由。


想像力を鍛えるためにいろいろな小説を読み始めた。
なかなか想像できないものもあるけれど、その場合、想像するための情報が足りないのだと思う。
想像するには情報がある程度必要で、情報があってそこからいろいろなことを読み取ることができるわけで。


どうしてこうも「想像力」に固執するのか、自分でも不思議だ。
誰かになにか言われたわけではない。
でも、ふと自分の苦手な部分に今更のように気づいてしまって、今更だけどどうにかしたいと思っているのかもしれない。


長くなってしまったので、このへんで。
ストックがあればPM9時に予約投稿されます。
ストックがなければ更新されません。あしからず。



想像力が生む不安

komoko.hatenablog.com
↑で書いたものの続きなのだけれど、
ここで私は「想像力が乏しい」と書いたのだけれど、うーん、一概にそうも言えない気もしてきた。


「他者に関する想像力が乏しい」が正確な表現で、自分については、物凄いレベルで想像する。
特に未来、これからについて想像する。想像し過ぎて、不安になる。怖くなる。
まだ現実にそうなっているわけではないのに、もしかしたらそうなるかもしれないという想像で自分を怯えさせている。
我ながら間抜けだなぁと思うのだけれど、いろいろと想像してしまうということは想像力は、まぁそこそこあるのかもしれない。


もちろん、自分の想像力で救われたこともある。過去、小説(ラノベ)を書いていたことがあるのだけれど、それは自分の想像力の産物だ。想像し、言葉を紡ぎ、文章を織っていくのは楽しい作業だ。自分で自分を救う作業を長い間してきた。


今そういった創作活動をしていないのは、自分の想像力の限界を感じたからで、言い換えれば自分の想像力の平凡さに呆れて筆を置いてしまった(書くのを止めてしまった)ということかもしれない。


たくさんインプットすれば、想像力の幅が広がるのか。確かにそれもあるかもしれない。インプットしてインプットして、それが独創的なアウトプットにつながるかといえば、必ずしもそうではなく、誰かが書いたことの「二番煎じ」にすぎなかったり、自己顕示欲を満たすために書いているにすぎなかったり……。


自己顕示欲も承認欲求もそれ自体は悪いことではなくて、自己有用感とか自己肯定感とか、それは必要なものであるように思う。ただ、私の場合、小説を書くこと、それだけに限定するのは、ちょっと怖い、リスキーだと思ったわけで。書くこと以外にできること探しの旅に出て、現在に至っている。クエストはまだまだ続いている。なかなかゴールにたどり着けない迷子になっているとも言える。
勿論、一つのことに打ち込むというのは悪いことではなく、打ち込めるものがあるというのは良いことだ。


話がそれたので戻そう。
想像しすぎて、不安になってしまう。
「もし~たら……」と。
想像力して悲観的になってしまうので、そこを逆手に取るようにした。
つまり、想像した状態にならないためにはどうしたらいいのか考える。
先手必勝的なことが好きだというのもある。
何もせず手をこまねいている、傍観しているよりは、なにか手を打つ。
とりあえず何かやってみる的なスタンスは昔から変わらないように思う。


そして、何かやってみるにあたり、まずは情報(知識)集めから始めるのはセオリーといえばセオリーかもしれない。


無知が不安を増幅させることもあるので、知ることを疎かにしてはいけないなぁと。


「想像を超えた」という表現があるけれど、なるほど、想像というのは常に超える可能性があるもので、自分の想像なんてたかが知れてる、自分の想像がいつも正しいとか唯一だとか思わないことだな、と。


長くなってしまったので今日はこのへんで。
ストックがあればPM9時に予約投稿されます。
ストックがなければ更新されません。あしからず。


知識と想像力

「本を読むのが好き」と言っても、読む本に偏りがあって、うーん、これって良いことではないな、と。
本から得られる知識、その知識の偏り。偏り……うーん、なんというか、頭を抱えてしまう。


偏った知識をどうにかしたほうがいいと思う一方で、その偏りは専門性がある偏り(よく言えば専門的な深みがある知識)ということもできる。(自分を正当化するというか自己保全ぽいこと書いているなぁと我ながら思うのだが)


まぁ偏った知識は仕方がないとして、その偏っている(専門的)知識を果たしてどれほど生かせているのかな、と。
知識はあっても想像力がなくて、ただ持っているだけにすぎないんじゃないかと。


私の場合、まったく想像力がないわけではないけれど、想像力が乏しいというか、うん、まぁ、そういうことなんだと思う。


「相手の立場に立って考える」とか「相手が考えることを想像する」というが実は苦手で、苦手ゆえになかなかしようとしない。
自分とは違う相手の考えることを想像する。そうすると感じるもの、考えることがおのずと出てくるわけで。(いや、なかなか出てこない人がここにいるわけなんだが)


まぁ、自分のことはあれこれ考える(想像する)癖に、他者の考えることは想像できない……というか想像するのが苦手、難しい。


ちょっと話がそれるけれど、
「自分の苦手を認める」というのは、なかなかできないことだったりする。ついつい見て見ないふりしてしまうというか……。
逆に自分の苦手に焦点を当てすぎて、そのことばかり考えて憂鬱になって、そのうち無気力になる。どうせ自分なんて……と。
苦手なことを考えすぎるのはよくない。


一方で、苦手であっても、どうにかなるんじゃないか、どうにかできるんじゃないかと期待してしまうところから葛藤、悩みは生まれるように思う。
自分への期待。
他者や他のものへの期待をすることも多いのだけれど、それ以上に自分に期待して、負荷をかけていることが本当に多い。
諦めようにも諦められないことは意外と多くて、「諦める」というのにnegativeなイメージがつきまとうせいで、「諦めちゃダメだ」的な路線が常設されてしまう。「諦めたらそこで試合終了」というのも否定するわけではないのだけれども。


話を戻して、
「相手が考えることを想像する」として、その想像が的外れだったりすることもあるので、その点を危惧する。
相手は相手であって、自分ではない。自分とは感じ方も考え方も違う。
自分がこういう風に感じるのだから、相手もこういう風に感じるにちがいないと思うのは、勝手な決めつけに他ならない。
これが私がいちばん嫌うところで、「こもこさん(私のこと)は〇〇だから、△△△だよね」と言われるのが何よりイヤだったりする。
この人は「こもこという人が書いた文章」でこういう風に「こもこという人」を定義するんだなぁと。
その想像はその人独自のものであって、それが必ずしも合っているわけではない。その想像を本人に向かって言うのは押しつけというか無粋というか失礼なんじゃないだろうか。


もちろん、読んだ感想は自由に持っていい。持っていいけれど、それはそれ。書き手は読み手を意識して、擬態して書いているので、「書いたもの」と「書いた人」はイコールではない。もう少し優しい言い方をすると「完全なイコールではない」と書いたほうがいいだろうか。


もう少し書きたいことがあるのだけれど、長くなってしまったので、今日はこのへんで。
続きはストックにあげておこう。
ストックがあれば、PM9時に予約投稿されます。ストックがなければ、更新されませんので、あしからず。